
織田信長(第4回)勢力拡大の先にあった本能寺

基本情報
| 氏名・名称 | 織田信長(おだ のぶなが) |
|---|---|
| 生年・没年 | 天文3年(1534年)〜天正10年(1582年) |
| 出身地 | 尾張国(勝幡城または那古野城) |
| 主な居城・拠点 | 安土城 |
| 家族・一族 | 父:織田信秀 / 母:土田御前 / 嫡男:織田信忠 / 次男:織田信雄 / 三男:織田信孝 / 孫:三法師(織田秀信) |
| 功績・主な戦い | 石山本願寺との勅命講和、京都御馬揃えの挙行、甲州征討による武田氏滅亡と東国平定、各方面軍による広域支配の確立 |
| 種類 | 人物 (武将・偉人など) |
| 時代 | 安土桃山時代 |
| 主な地域 | 京都府、滋賀県、岐阜県、大阪府、山梨県 |
| 関連タグ | #織田信長#本能寺の変#織田信忠#京都御馬揃え#甲州征討 |
この連載の記事一覧(全4回)
- 第1回:織田信長(第1回)尾張の家督争いから桶狭間へ|「うつけ」伝承の裏にある実務と統一過程
- 第2回:織田信長(第2回)美濃攻略と上洛、足利義昭との決裂|岐阜の「天下布武」と室町幕府の終焉
- 第3回:織田信長(第3回)包囲網との戦いと安土の政権
- 第4回:織田信長(第4回)勢力拡大の先にあった本能寺(現在の記事)
石山本願寺との講和と家中統制の強化
元亀元年(1570年)の挙兵以来、10年間にわたって織田政権と戦い続けた摂津大坂の石山本願寺(現在の大坂城の地)でしたが、天正6年(1578年)11月の第二次木津川口の戦いによる海上補給路の遮断と、有岡城主・荒木村重や播磨三木城主・別所長治ら反信長勢力の相次ぐ敗北によって孤立を深めました。天正8年(1580年)閏3月、信長は正親町天皇の勅命による和睦(勅命講和)を仲介として本願寺の顕如と講和を結び、同年4月に顕如が紀伊鷺森へ退去、さらに抗戦を主張していた長男・教如も8月に大坂を退去したことで、最大の難敵であった石山合戦はついに終結しました。
この石山本願寺退去の直後である天正8年(1580年)8月、信長は織田家中に衝撃を与える人事処分を断行します。対本願寺戦の主将を5年間務めていた筆頭宿老・佐久間信盛とその嫡男・信栄(正勝)に対し、19か条におよぶ長文の折檻状(『信長公記』所収)を突きつけて高野山へ追放したのです。折檻状の中で信長は、明智光秀が丹波で、羽柴秀吉が中国で、柴田勝家が北陸で、池田恒興や丹羽長秀が摂津でそれぞれ武功を挙げているのに対し、信盛父子は5年間大軍を預かりながら一度の合戦も挑まず、茶の湯や蓄財に耽って持久戦に安住していたと厳しく糾弾しました。
さらに信長は、尾張・那古野城時代からの筆頭家老であった林秀貞(通勝)について、24年前の弘治2年(1556年)に弟・信勝(信行)を擁して謀反を企てた旧罪を持ち出して追放し、美濃三人衆の一人であった安藤守就も武田氏への内通の疑いで追放しました。これら一連の宿老追放は、単なる個人の気まぐれや感情的な処罰ではなく、尾張・美濃以来の家格に頼る旧来の譜代重臣層を整理し、実力と成果に基づいて抜擢された方面軍司令官(勝家・秀吉・光秀・滝川一益ら)と直属吏僚層を中心とする集権的な軍事体制へ完全に移行するための政治的措置であったと位置づけられています。
京都御馬揃えと各方面軍の展開
石山本願寺を収め、家中の再編を終えた信長は、天正9年(1581年)2月28日(および3月5日)、京都の内裏東門外に設けた馬場において大規模な軍事パレード「京都御馬揃え」を挙行しました。準備の総奉行は明智光秀が務め、織田一門や丹羽長秀・細川藤孝・筒井順慶ら畿内近国の諸将、安土の馬廻衆・小姓衆らが華麗な装束と武具をまとって整然と行進し、正親町天皇や公家衆、宣教師ヴァリニャーノ、そして沿道を埋め尽くした京都の市民たちに織田政権の圧倒的な武威と秩序を見せつけました。
この頃、信長の戦略は安土の本営を中心として、四方の方面軍が同時に外征を進める広域展開の段階に入っていました。
北陸方面では、越前北ノ庄城の柴田勝家が前田利家・佐々成政らを率いて加賀一向一揆を平定し、能登から越中へと進撃して越後の上杉景勝を激しく圧迫していました。中国方面では、播磨姫路城を拠点とする羽柴秀吉が但馬・因幡を制圧し、天正9年(1581年)10月には因幡鳥取城を兵糧攻めで陥落させて毛利輝元の勢力圏である備中へと迫ります。畿内・山陰方面では、明智光秀が近江坂本城と丹波亀山城を拠点に丹波・丹後の経営と京都の政務・朝廷対応を担い、伊勢・伊賀方面では次男・織田信雄と滝川一益が天正9年9月に伊賀国を平定しました。そして南海方面でも、三男・織田(神戸)信孝と丹羽長秀を主将とする四国征討軍の編成が進められていました。
甲州征討による武田氏滅亡と東国の戦後処理
天正10年(1582年)2月、信濃の木曾義昌が武田勝頼から離反して織田方に通じたことを契機に、信長は懸案であった甲斐・信濃の武田領に対する総攻撃(甲州征討)を発令します。
総大将を務めたのは、すでに織田家の家督を継いでいた嫡男・織田信忠でした。信忠率いる織田軍本隊が伊那口から、徳川家康が駿河口から、相模の北条氏政が関東口から、金森長近が飛騨口から同時に侵攻すると、武田一門の穴山梅雪らの離反も相次いで武田方の防衛網は急速に瓦解しました。信忠は3月2日に勝頼の弟・仁科盛信が籠もる信濃高遠城を力攻めで陥落させ、そのまま甲府へ突入します。追い詰められた武田勝頼と嫡男・信勝は、3月11日に天目山(山梨県甲州市大和町田野)の麓で滝川一益の軍勢に捕捉されて自刃し、新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏は滅亡しました。
遅れて信濃・甲斐へ入り領内を巡見した信長は、戦後処理として駿河を徳川家康に、甲斐を河尻秀隆(一部は穴山梅雪)に、信濃を森長可・毛利長秀・団忠正らに与え、重臣・滝川一益には上野国(現在の群馬県)と信濃小県・佐久郡を与えて厩橋城(前橋城)へ入れ、「関東管領」に準じる東国支配の重責を委ねました。あわせて甲斐・信濃に「国掟」を下し、領内の関所・駒口(通行税)の全面撤廃や訴訟の公正化を命じています。
信長自身も3月に美濃・信濃を経て甲府へ入り、富士山を遊覧しながら東海道を通って4月21日に安土城へと凱旋しました。父・信玄の代から織田・徳川両家を脅かし続けた武田氏の滅亡により、織田政権の支配領域は一気に甲斐・信濃・駿河・上野へと広がり、東国の戦後処理を終えた信長は、残る毛利氏の中国戦線と長宗我部氏の四国戦線へと全力を振り向ける態勢を整えました。

調査猫の補足
甲州征討において現地で軍勢を指揮し、高遠城攻略から甲府制圧までを成し遂げたのは、すでに天正3年(1575年)に織田家の家督を継いでいた嫡男・織田信忠でした。天正10年当時の織田政権は、岐阜城に座して尾張・美濃を統括し大軍を率いる「当主・信忠」と、安土城から全方面軍と朝廷外交を統括する「大殿・信長」という父子二元体制として機能していた点を見落とせませんね。
本能寺の変と直後の政局変動
天正10年(1582年)5月、信長は安土城で盟友・徳川家康を明智光秀を饗応役として手厚くもてなしたのち、家康を堺・京都見物へと送り出しました。その直後の5月15日、備中高松城を水攻めで包囲していた羽柴秀吉から「毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の毛利本軍が出陣して対峙しているため、信長自身の出馬を仰ぎたい」との要請が届きます。
信長はこれを好機と見て中国遠征への親征を決定し、明智光秀・細川忠興・筒井順慶・高山右近らに先鋒としての出陣準備を命じました。5月29日、信長は中国出陣に先立つ準備のため、小姓の森成利(蘭丸)らわずか100名余りの近習のみを連れて安土城を出発し、同日中に上洛して宿所の本能寺(当時は四条西洞院・蛸薬師通小川周辺)へ入ります。また嫡男・信忠も、同じく中国遠征へ向かうため上洛し、信長の定宿であった妙覺寺(当時は二条衣棚)に滞在していました。
しかし6月1日夕刻、丹波亀山城を出陣した明智光秀は、中国方面へ向かうはずの進路を東へ転じ、老ノ坂峠を越えて京都へ突入します。翌6月2日未明、光秀率いる約1万3千の軍勢が本能寺を幾重にも包囲して討ち入りました(本能寺の変)。『信長公記』によれば、当初は小姓たちの喧嘩かと思った信長でしたが、鬨の声と鉄砲の音で光秀の謀反を悟ると「是非に及ばず」と述べ、自ら弓や槍を手にとって防戦したのち、肘に傷を負うと殿舎の奥へ退いて火を放ち、数え49歳で自刃して果てました。遺骸は炎上する伽藍の中で発見されず、側室・お鍋の方や帰依の深かった阿弥陀寺の清玉上人らによって各地に供養塔や廟所が営まれました。
この変において歴史の行方を決定づけたのは、妙覺寺にいた織田家当主・織田信忠の動向でした。未明に本能寺の急変を知った信忠は直ちに救援へ向かおうとしましたが、村井貞勝父子から本能寺がすでに焼け落ちたことを知らされると、軍勢を整えて迎え撃つため、隣接する二条新御所(誠仁親王・若宮が滞在していた館)へ移りました。信忠は親王らを内裏へ無事に退避させたうえで、押し寄せた明智軍の大軍を相手に自ら太刀を振るって激しく防戦しましたが、衆寡敵せず、建物に火をかけて数え26歳で自刃しました。なお、光秀がなぜこの時点で謀反に踏み切ったのか(処遇や四国政策をめぐる不安説、単独決断説、あるいは朝廷・足利義昭・諸勢力との関わりを想定する諸説など)については確定した一次史料が存在せず、光秀側の具体的な職務や丹波統治、変前後の行動については明智光秀の単独記事で詳しく扱います。
信長と、すでに家督を継いで実績を積んでいた後継者・信忠が同じ日に京都で討たれたことは、織田政権にとって致命的な打撃となりました。当時、堺に滞在していた徳川家康はわずかな供回りとともに苦難の「伊賀越え」を経て三河へ帰還し、上野厩橋にいた滝川一益は北条氏政の攻勢を受けて神流川の戦いに敗れ上方へ撤退、北陸の柴田勝家も越中魚津城を落とした直後に釘付けとなります。その間隙を縫って、備中高松城で毛利氏と講和して驚異的な速度で畿内へ引き返した(中国大返し)羽柴秀吉が、変からわずか11日後の6月13日に山崎の戦いで明智光秀を破りました。その直後の6月15日には、主を失った安土城の天主と本丸御殿が火災により焼失します。そして6月27日に開かれた清洲会議において、秀吉が亡き信忠の3歳の遺児・三法師(織田秀信)を織田家の後継者に擁立して宿老間の主導権を握り、その後、柴田勝家らとの抗争を制した秀吉によって、信長が推進した天下統一事業と政権の枠組みが引き継がれていくことになりました。

歴史マニア猫の補足
現在の京都市中京区・寺町通御池にある「大本山 本能寺」は、変の後に豊臣秀吉の京都都市改造によって移転・再建された場所であり、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変が起きた実際の場所は、そこから南西へ1キロ以上離れた蛸薬師通小川(元本能寺南町周辺)でした。現地の発掘調査では、当時の本能寺を囲んでいた深い堀跡や焼土、熱で赤く変色した瓦が見つかっています。移転先の本能寺にある信長公廟と、変当時の故地に立つ石碑の両方を訪ねてみると、戦国京都の町の移り変わりが立体的に見えてきますよ。
時代背景と関係人物
| 人物 | 関係・時期 | 影響・補足 |
|---|---|---|
| 織田信忠 | 嫡男・天正3年(1575年)に家督相続 | 天正3年(1575年)11月に信長から織田家の家督と美濃・尾張を譲り受け、甲州征討で武田氏を滅ぼす実績を挙げたが、本能寺の変当日に二条新御所で明智軍と戦い自刃した。 |
| 佐久間信盛 | 織田家筆頭宿老 | 尾張時代から織田家を支え対石山本願寺戦の主将を務めたが、天正8年(1580年)8月に信長から19か条の折檻状を突きつけられ高野山へ追放された。 |
| 柴田勝家 | 重臣・北陸方面軍司令官 | 越前北ノ庄城を拠点に北陸の一向一揆を平定し上杉景勝を圧倒したが、本能寺の変当時は越中魚津城攻略直後であったため上洛が遅れ、清洲会議で羽柴秀吉と対立した。 |
| 羽柴秀吉 | 重臣・中国方面軍司令官 | 播磨・但馬・因幡を経て備中高松城を水攻め中に本能寺の変を知り、毛利氏と講和して「中国大返し」を敢行。6月13日の山崎の戦いで明智光秀を破り政権の主導権を握った。 |
| 明智光秀 | 重臣・近江坂本および丹波亀山城主 | 京都政務や丹波平定、京都御馬揃えの奉行など中枢実務を担ったが、天正10年(1582年)6月2日未明に本能寺の信長と二条新御所の信忠を急襲した。 |
| 徳川家康 | 同盟者(三河・遠江・駿河の大名) | 甲州征討の功により駿河を与えられ、天正10年5月に安土城で歓待されたのち堺滞在中に本能寺の変に遭遇し、伊賀越えを経て三河へ帰還した。 |
年表
年表
※日付・月日は当時の史料に基づく旧暦(太陰太陽暦)表記を基本とし、西暦・元号と信長の数え年(天文3年=1534年生まれを1歳として換算)を併記しています。
石山本願寺との勅命講和と大坂退去
正親町天皇の勅命講和により顕如・教如が大坂・石山本願寺から退去し、10年間に及んだ石山合戦が終結する。
佐久間信盛・林秀貞らの追放
19か条の折檻状を突きつけて宿老・佐久間信盛父子を追放し、続いて林秀貞や安藤守就ら旧来の重臣を処罰して権限集中を進める。
京都御馬揃えの挙行
明智光秀を奉行として京都の内裏東門外で大規模な軍事パレード(御馬揃え)を挙行し、正親町天皇や公家・市民に政権の威容を示す。
甲州征討と武田氏の滅亡
嫡男・織田信忠を総大将として甲斐・信濃へ侵攻し、3月11日に武田勝頼・信勝父子を天目山で自刃させ武田氏を滅ぼす。
徳川家康の安土歓待と四国・中国出兵の発令
安土城で盟友・徳川家康を手厚く歓待し、あわせて三男・織田信孝らによる四国征討および羽柴秀吉への中国増援を発令する。
中国出陣準備のため上洛し本能寺へ入る
備中高松城を攻める羽柴秀吉を支援するため、少数の小姓・馬廻のみを率いて安土から上洛し、京都・本能寺へ宿泊する。
本能寺の変により自刃
未明に明智光秀軍の急襲を受け、本能寺にて防戦の末に自刃。同日、妙覺寺から二条新御所へ移った嫡男・信忠も自刃する。
山崎の戦い・安土城焼失・清洲会議
羽柴秀吉が山崎の戦いで光秀を破り、安土城天主・本丸が焼失。清洲会議で信忠の遺児・三法師(秀信)が後継に擁立される。
ゆかりの地

旅猫の案内
大本山 本能寺
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で焼失したのち、天正19年〜文禄元年(1591〜1592年)頃に豊臣秀吉の京都都市改造に伴って現在地(寺町通御池)へ移転再建された寺院であり、境内に信長公廟が営まれています。
訪れる価値・見どころ
信長の三男・織田信孝の命により建立された信長公廟と本能寺の変戦没者合祀墓が鎮座し、大寶殿宝物館では信長ゆかりの茶道具や書状、香炉「三足の蛙」などの寺宝を見学できます(※変当時の現地は蛸薬師通小川の「本能寺跡」であり場所が異なります)。
本能寺跡(石碑)
天正10年(1582年)6月2日未明、信長が明智光秀の軍勢に包囲され、数え49歳で最期を遂げた当時の本能寺(四条西洞院・蛸薬師通小川周辺)の故地です。
訪れる価値・見どころ
現在の寺町通御池の本能寺から南西へ約1.2キロ離れた元本能寺南町・本能寺町周辺にあたり、蛸薬師通小川角や油小路通沿いに石碑と解説板が建てられています。周辺の発掘調査では変当時の堀跡や焼土層・焦げた瓦が出土しています。
妙覺寺
信長が上洛した際にもっとも頻繁に宿所とした日蓮宗の本山であり、本能寺の変当夜には織田家当主であった嫡男・織田信忠が宿泊していた寺院です(当時は二条衣棚に所在し、のちに秀吉の命で現在地へ移転)。
訪れる価値・見どころ
信忠は変を知るとここから隣接する二条新御所へ移って奮戦し自刃しました。現在の妙覺寺境内には本堂や大玄関、枯山水庭園「法姿園」などが伝わり、織田父子と京都法華宗寺院の深い関わりを伝えています。
建勲神社
京都市北区の船岡山に鎮座し、織田信長と嫡男・織田信忠の父子を主祭神として祀る神社です。
訪れる価値・見どころ
明治2年(1869年)の明治天皇宣下により創建され、境内からは比叡山や大文字山、京都市街を一望できます。信長が桶狭間で得た名刀「義元左文字(宗三左文字)」(重要文化財)や『信長公記』などを所蔵しています。
崇福寺(織田信長公父子廟)
信長が美濃攻略後に織田家の菩提所として保護した臨済宗寺院であり、本能寺の変直後に側室・お鍋の方が信長・信忠父子の遺品・位牌を送って葬った廟所が営まれています。
訪れる価値・見どころ
本堂裏手に信長と信忠の法名を並べて刻んだ「織田信長公父子廟」(岐阜市指定史跡)があり、信長ゆかりの書状や遺品、関ヶ原前哨戦で落城した岐阜城の床板を用いた本堂の「血天井」などを見学できます。
まとめ
全4回にわたってたどってきた織田信長の生涯(天文3年[1534年]〜天正10年[1582年])は、「うつけ」と呼ばれた尾張の若武者が「革命児として旧秩序をすべて破壊した」という単純な物語ではありませんでした。父・信秀の経済基盤を引き継いで尾張を統一した第1回、美濃を攻略し将軍・足利義昭と協調しつつ決裂へ至った第2回、包囲網との戦いのなかで安土城と城下町・方面軍体制を築いた第3回、そして石山本願寺講和・武田氏滅亡から本能寺の変に至る第4回を通観すると、信長は常にその時々の朝廷や幕府、寺社、商業都市の枠組みを活用・再編しながら、兵站・流通の掌握と実力本位の組織運用によって課題を突破し続けた実務的指導者であったことが浮かび上がります。信長と嫡男・信忠が本能寺の変で同時に斃れたことで織田家による直接の天下統一は途絶えましたが、安土城に象徴される城郭と城下町の構造、楽市や検地による流通・土地把握、そして機動的な軍団編成は、その後の豊臣政権と徳川幕府による近世社会の礎として確実に受け継がれていきました。
関連リンク
参考資料・情報源
- 本能寺について(織田信長と本能寺)(法華宗大本山 本能寺 公式ホームページ)
- いしぶみデータベース NA054「本能寺址」・NA149「本能寺跡」(京都市歴史資料館)
- 北龍華具足山 妙覺寺(日蓮宗ポータルサイト公式)
- 本能寺の変と考古学(連続講座資料)(公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所)
- 建勲神社 境内案内・由緒(建勲神社 公式ホームページ)
- 織田信長公関連・崇福寺の歴史(臨済宗妙心寺派 神護山 崇福寺 公式ホームページ)


