
徳川家康(第3回)秀吉の天下で生き残る

基本情報
| 氏名・名称 | 徳川家康(とくがわ いえやす) |
|---|---|
| 生年・没年 | 1542年 - 1616年 |
| 出身地 | 三河国岡崎城 |
| 主な居城・拠点 | 駿府城、江戸城 |
| 種類 | 人物 (武将・偉人など) |
| 時代 | 安土桃山時代 |
| 主な地域 | 愛知県、静岡県、東京都、滋賀県 |
| 関連タグ | #徳川家康#豊臣秀吉#小牧・長久手の戦い#江戸入府#神君伊賀越え |
この連載の記事一覧(全4回)
- 第1回:徳川家康(第1回)人質から三河の大名へ
- 第2回:徳川家康(第2回)武田との戦いと領国拡大
- 第3回:徳川家康(第3回)秀吉の天下で生き残る(現在の記事)
- 第4回:公開をお待ちください
※本記事の年表などに記載される歴史上の月日は旧暦に基づいています。また、家康の年齢は天文11年(1542年)を出生年とする数え年を基準としています。
天正10年(1582年)、徳川家康は最大の脅威であった武田家を織田信長と共に滅ぼし、その恩賞として新たに駿河国(現在の静岡県中部・東部)を与えられました。長年の苦労が報われたかに見えたその直後、日本の歴史を根本から揺るがす大事件が勃発し、家康は人生最大の危機に直面することになります。
本能寺の変と天正壬午の乱
同年6月、少数の供回りだけを連れて和泉国(大阪府)の堺を見物していた家康の元に、「明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺で織田信長が討たれた」という凶報が飛び込みます。強力な後ろ盾であった信長を失ったことは、領国から遠く離れた畿内に滞在していた家康にとって重大な危機でした。光秀の軍勢ではなくとも、信長横死の知らせを受けて各地で蜂起した地域の土豪や一揆勢などの不測の事態に備えなければならない状況でした。家康は本多忠勝や服部半蔵らわずかな供回りに守られながら、険しい伊賀・甲賀の山中を昼夜を問わず進み、時には行く手を阻む在地勢力に多額の金品を渡して通行の許可を得るなど、苦難の連続でした。およそ200キロにも及ぶ行程の末、伊勢の白子(三重県鈴鹿市)から船に乗ってようやく三河へと帰り着くという、数日間の決死の逃避行「神君伊賀越え」を成功させます。

旅猫の案内
滋賀県甲賀市にある小川城跡は、伊賀越えの際に家康一行を保護した甲賀の土豪・多羅尾氏の拠点でした。家康の命を救ったルート上には、現在も彼らを助けた人々の足跡や伝承が残されています。
九死に一生を得て本国に生還した家康ですが、休む間もなく次の行動に出ました。信長の死によって、かつて武田領であった甲斐(山梨県)や信濃(長野県)は支配者を失い、政治的な空白地帯となっていました。家康はこの機を逃さず軍を派遣し、相模の北条氏直や越後の上杉景勝と三つ巴の激しい領土争いを繰り広げます(天正壬午の乱)。
天正壬午の乱において、家康は重臣の鳥居元忠や大久保忠世らを派遣し、黒駒の戦いで北条軍を奇襲して大勝を収めるなど、軍事的な優位を築き上げました。最終的に北条氏直に次女・督姫を嫁がせる条件で有利な和睦を結ぶことに成功した家康は、三河・遠江・駿河に加えて甲斐・信濃の大部分を獲得し、一気に五ヶ国を領有する強大な大名へと飛躍を遂げます。武田の遺臣を取り込んだ事実は、彼らが培ってきた軍事・行政のノウハウを徳川軍が吸収する契機となり、その後の軍制改革へと繋がっていくと解釈されています。
小牧・長久手の戦い:天下人・秀吉との激突
信長の死後、中央の覇権争いを制して急速に台頭してきたのが羽柴(後の豊臣)秀吉でした。これに危機感を抱いた信長の次男・織田信雄は家康に救援を求め、家康もそれに応える形で秀吉との対決を決意します。
天正12年(1584年)、家康・信雄の連合軍と、天下の覇権を狙う秀吉軍が尾張北部で激突しました。「小牧・長久手の戦い」です。 家康は小牧山城を拠点として土塁や堀を強固に改修し、秀吉の圧倒的な大軍を前に持久戦を展開します。しびれを切らした秀吉方の池田恒興や森長可らは、別働隊を率いて家康の本拠地である三河・岡崎城を直接叩く「中入り(なかいり)」作戦を実行に移します。しかし家康はこの動きを事前に察知し、夜陰に乗じて密かに追撃を開始しました。翌朝、家康の別働隊が白山林(はくさんばやし・愛知県尾張旭市)で休息していた豊臣軍を急襲し、さらに長久手(愛知県長久手市)周辺で家康の本隊が池田恒興・森長可ら名将を次々と討ち取るという、鮮やかな大勝利を収めました。

歴史マニア猫の補足
小牧・長久手の戦いでは、家康は秀吉の軍勢を局地戦で打ち破り、戦国武将としての確かな軍事力を示しました。これにより、秀吉も家康を単なる臣下ではなく、特別な実力者として扱わざるを得なかったと考えられます。
小牧・長久手での軍事衝突は、野戦だけでなく緻密な陣地構築戦でもありました。家康は秀吉方の池田恒興を討ち取った後も決して慢心することなく、秀吉のさらなる大軍と対峙するために小牧山城から清洲城、さらには長島城へと拠点を柔軟に移しながら、数ヶ月にわたって徹底的な防衛線を維持し続けました。秀吉は力攻めによる徳川軍の撃破を諦め、軍事戦から外交戦へと戦略を切り替えることになります。秀吉は家康との直接対決を避け、家康の大義名分であった同盟者の織田信雄に猛烈な外交圧力をかけ、なんと信雄を家康に無断で単独講和させてしまったのです。守るべき名分を失った家康は、軍を引き揚げるしかありませんでした。
重臣・石川数正の出奔と臣従の決断
小牧・長久手の戦い後も家康と秀吉の間の冷戦状態は続きましたが、天正13年(1585年)、徳川家を根底から揺るがす大事件が起こります。幼少期の竹千代時代から家康に付き従い、徳川家の外交や軍事を一手に担っていた筆頭重臣・石川数正が、一族を連れて突如秀吉の元へ出奔してしまったのです。 数正が出奔した理由については、「秀吉の圧倒的な実力から徳川家を守るため、自ら犠牲となって降伏を促した」という説や、「秀吉の巧みな調略に籠絡された」という説などがあり、確固たる理由は定まっていません。

調査猫の補足
徳川家の軍事機密をすべて知る数正の裏切りにより、徳川軍は従来の防衛陣形を根底から変更せざるを得なくなりました。この軍制改革において、天正壬午の乱で取り込んでいた武田遺臣の知識が大いに活用されたとされています。
軍事機密の漏洩によって防衛戦略の根本的な練り直しを迫られた家康に対し、秀吉からの臣従要請はさらに強まりました。秀吉は、正室を亡くしていた家康に対して自身の妹である朝日姫を正室として無理やり嫁がせ、さらに自身の実母である大政所を病気見舞いと称して人質として岡崎に送るという、異例中の異例とも言える厚遇(事実上の強烈な外交圧力)を見せます。秀吉は、家族を人質に出してでも家康を臣従させたいという意向と、これ以上の軍事衝突を避けるという意思を示したのです。ここに至り、ついに家康も天下の趨勢を見極めて上洛を決断し、天正14年(1586年)に大坂城で秀吉に接見し、正式に臣従を誓いました。これにより、両者の長きにわたる冷戦は終結しました。
関東移封と江戸城下の整備
天正18年(1590年)、秀吉は関東の北条氏政・氏直父子を討つ「小田原征伐」を敢行し、天下統一を完成させます。家康も先鋒として重要な役割を果たしました。 この戦後処理の際、秀吉は家康に驚くべき命令を下します。家康が苦労して手に入れた三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国から、北条氏の旧領である関東地方(武蔵・伊豆・相模など)へ国替えさせるという「関東移封(かんとういほう)」です。石高で見れば大幅な加増でしたが、長年培ってきた譜代の家臣団や領民との結びつきを断ち切られ、未知の土地へ移ることは計り知れない試練でした。
家康が新たな本拠地に選んだ「江戸」については、江戸中期の兵学者・大道寺友山による『落穂集』などで「見渡す限りの葦原が広がる萱葺きの寒村であった」と語られ、故郷から引き離された家臣たちが落胆したという逸話が有名です。しかし近年の歴史・考古学の研究によれば、家康入城以前の江戸は、太田道灌や北条氏の時代を通じて「江戸湊」としてすでに交通・物流の基盤を持ち、日比谷入江の周辺には品川や浅草と並ぶような港町が形成されていたことが分かっています。関東の中心都市としてさらに発展させるための基盤はすでに存在していたと指摘されています。
大勢力を誇る戦国大名の拠点としては未整備であった江戸に対し、家康は都市整備に着手します。入城当初は、道三堀の開削や局地的な造成など、実用的な拠点整備から始まりました。その後、関ヶ原の戦いを経て天下人としての権力を確立していく過程で、江戸城の大規模な拡張や日比谷入江の埋め立て、身分に応じた明確な都市区画(ゾーニング)などが本格化していきます。また、頻繁に氾濫を起こす利根川の流路を東へ付け替える「利根川東遷」などの治水事業や新田開発も、数代の将軍にわたる長期的な国家事業として伊奈忠次ら有能な代官たちによって進められました。武力だけでなく、行政手腕と土木技術による広大な関東平野の領国経営が、後の巨大都市「江戸」の礎を築いたのです。
関東の統治を安定させた家康は、江戸城を巨大な拠点として整備しつつ、豊臣政権下において「五大老」の筆頭として確固たる地位を築き上げました。秀吉が強行した朝鮮出兵(文禄・慶長の役)において、家康は名護屋城(佐賀県)の普請(建設)や兵の動員などの重い軍役負担を強いられました。しかし、名護屋城へ出陣して長期滞在したものの、海を渡っての実際の戦闘(渡海)は免れました。西国大名たちが大陸での激戦で兵力や財力を激しく消耗していく中、家康が直接の戦闘による消耗を回避できたことは、結果として後の覇権争いで決定的な優位性をもたらすことになります。そして慶長3年(1598年)、絶対的な権力者であった豊臣秀吉がこの世を去ります。秀吉の死は、封印されていた天下の覇権争いが再び動き出す合図でもありました。
時代背景と関係人物
| 人物 | 関係・時期 | 影響・補足 |
|---|---|---|
| 豊臣秀吉 | 最大の好敵手にして主君 | 織田信長の後継者として天下を統一。小牧・長久手の戦いでは家康と激突したが、強烈な外交戦によって家康を臣従させた。 |
| 石川数正 | 徳川家出奔の宿老 | 幼少期から家康に付き従い、外交・軍事の要として活躍した重臣。小牧・長久手の戦い後に突如秀吉の元へ出奔した。 |
| 北条氏政 | 天正壬午の乱の敵・同盟相手 | 関東の覇者。信長の死後、家康と旧武田領を巡って争ったが和睦。後に秀吉への従属を拒み、小田原征伐で滅亡した。 |
| 本多忠勝 | 徳川四天王・絶対の忠臣 | 生涯57回の合戦に参加し、一度もかすり傷を負わなかったと伝わる猛将。伊賀越えや小牧・長久手などで家康の危機を救った。 |
| 織田信雄 | 信長の次男・小牧長久手の盟友 | 秀吉の台頭に対抗するため家康に救援を求めたが、後に秀吉の圧力に屈して単独講和を結び、家康に撤兵を余儀なくさせた。 |
年表
※年齢は数え年で表記
本能寺の変により信長横死。神君伊賀越えを経て帰国。天正壬午の乱を経て甲斐・信濃を獲得し五ヶ国領有の大名となる。
小牧・長久手の戦いで羽柴(豊臣)秀吉と激突。戦術的勝利を収めるも、同盟者の信雄が単独講和したため撤兵。
重臣・石川数正が突如出奔し、秀吉の元へ走る。
秀吉からの再三の要請(妹・朝日姫との婚姻、母・大政所の人質化)を受け、上洛して秀吉に臣従を誓う。
小田原征伐に参陣し北条氏滅亡。戦後、秀吉の命により五ヶ国から関東(江戸)への移封(加増転封)を命じられる。
豊臣秀吉が死去。五大老筆頭として、再び天下への野望を抱き始める。
ゆかりの地
小牧山城跡
小牧・長久手の戦いの際、家康が本陣を置き、土塁や堀などの大規模な改修を行った城跡。
訪れる価値・見どころ
家康が築いた土塁や堀が現在も残り、山頂の小牧市歴史館から周辺を一望できる。
長久手古戦場
家康軍が別働隊による奇襲を察知し、秀吉方の池田恒興・森長可らを撃破した激戦の地。
訪れる価値・見どころ
現在は古戦場公園として整備され、武将たちの塚や慰霊碑が残る。2026年4月に「長久手古戦場記念館」が新たに開館した。
江戸城跡(皇居東御苑)
豊臣秀吉の命により関東へ移封された後、家康が新たな本拠として大土木工事で改修・整備を行った城。
訪れる価値・見どころ
広大な石垣や富士見櫓、百人番所などが残る。当時の江戸の都市計画のスケールを体感できる。
小川城跡(伊賀越え関連)
本能寺の変直後の「神君伊賀越え」において、家康一行を保護し道案内を務めた多羅尾氏の居城跡。
訪れる価値・見どころ
信楽焼で知られる甲賀市信楽町に位置し、曲輪や土塁などの遺構が残る。
まとめ
本能寺の変からの十数年間は、家康にとって存亡の危機と、勢力拡大のまたとないチャンスが入り交じる激動の中年期でした。 伊賀越えで奇跡的に命を拾い、天正壬午の乱では卓越した行動力と人材登用で五ヶ国領有の大名へと躍進。小牧・長久手の戦いでは、天下人・秀吉を相手に局地戦で見事な勝利を収め、自らの軍事力を天下に誇示しました。
最終的には秀吉の政治力と国力に屈して臣従を選び、さらには関東への移封という試練を受け入れざるを得ませんでしたが、家康は決して屈服したわけではありませんでした。都市基盤の整備と代官制度などを通じて関東平野を開発し、強大な経済力と軍事力を静かに蓄え続けたのです。 耐え忍び、したたかに力を蓄え続けた家康は、秀吉という巨星が堕ちた後、ついに天下人の座を懸けた最後の大勝負へと向かっていきます。次回(最終回)は、「関ヶ原の戦い」から江戸幕府の開府、そして豊臣家を滅ぼす「大坂の陣」を経て、家康がいかにして泰平の世を築き上げたのか、その最終章に迫ります。


