人物戦国時代安土桃山時代

織田信長(第3回)包囲網との戦いと安土の政権

公開: 2026-10-29
滋賀県、福井県、愛知県、三重県、大阪府
永禄11年(1568年)の上洛によって畿内に地歩を築いた織田信長でしたが、元亀元年(1570年)以降、越前の朝倉義景や北近江の浅井長政、比叡山延暦寺、石山本願寺と各地の一向一揆、さらには甲斐の武田氏らが連動する激しい多正面戦争に直面します。将軍・足利義昭との対立・決裂と重なり合ったこの10年間は、織田政権にとって最大の試練であると同時に、旧来の国衆連合から抜け出して新たな軍事・統治組織を鍛え上げる過程でもありました。 浅井・朝倉両氏の討滅、伊勢長島一向一揆の制圧、そして天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦いを経て危機を打開した信長は、天正4年(1576年)より琵琶湖東岸の安土山に総石垣・瓦葺き高層天主を備える安土城を築きます。山麓には「安土山下町中掟書」によって商業・交通を集積させた城下町を整備し、直属の馬廻衆・母衣衆と各地へ派遣する方面軍司令官を組み合わせた二層構造の支配体制を確立していきました。 本稿では、反信長勢力との戦いにおける具体的な軍事運用から、安土城の空間構造、商業・都市政策、そして家臣団再編と検地・城割を通じた領国統合の実像をたどります。
織田信長(第3回)包囲網との戦いと安土の政権のイメージ

基本情報

氏名・名称織田信長(おだ のぶなが)
生年・没年天文3年(1534年)〜天正10年(1582年)
出身地尾張国(勝幡城または那古野城)
主な居城・拠点岐阜城 → 安土城
家族・一族父:織田信秀 / 母:土田御前 / 嫡男:織田信忠 / 次男:織田信雄 / 三男:織田信孝 / 妹:お市の方
功績・主な戦い浅井・朝倉両氏の討滅と近江・越前平定、長篠・設楽原の戦いでの勝利、安土城の築城と安土山下町中掟書の発布、方面軍体制の構築
種類人物 (武将・偉人など)
時代戦国時代 / 安土桃山時代
主な地域滋賀県、福井県、愛知県、三重県、大阪府
関連タグ
#織田信長#安土城#長篠の戦い#姉川の戦い#楽市楽座

この連載の記事一覧(全4回)

浅井・朝倉・比叡山との抗争と近江・越前の平定

将軍・足利義昭を奉じて入京を果たした織田信長にとって、美濃・尾張の本国と京都を結ぶ近江国(現在の滋賀県)の安定は生命線でした。しかし元亀元年(1570年)4月、信長が上洛命令に従わない越前の朝倉義景を討つため若狭を経て敦賀へ侵攻し、金ヶ崎城・手筒山城を落とした直後、思いがけない事態が発生します。妹・お市の方の夫であり北近江の小谷城(長浜市)を拠点とする同盟者・浅井長政が、朝倉氏との長年の提携関係を重んじて信長から離反したのです。

腹背に敵を受けた信長は、木下藤吉郎(羽柴秀吉)や明智光秀、池田勝正らに殿(しんがり)を命じ、自らは少数の供回りとともに若狭から朽木谷(高島市)を経て京都へ撤退しました(金ヶ崎の退き口)。一命を取り留めた信長は直ちに体勢を立て直し、同年6月28日、徳川家康の援軍とともに近江・姉川河原で浅井・朝倉連合軍と激突します(姉川の戦い)。戦いは浅井勢の先鋒・磯野員昌らが織田軍の陣を幾重にも突き崩す激戦となりましたが、徳川軍が朝倉勢を押し返して浅井勢の側面を突いたことで、織田・徳川連合軍が勝利を収めました。

それでも戦局は一挙には決着しませんでした。同年8月、信長が摂津の三好三人衆を攻めている隙を突いて浅井・朝倉軍約3万が南下し、さらに9月には摂津大坂の石山本願寺(顕如)が門徒を動員して挙兵、伊勢長島の一向一揆も蜂起して信長の弟・織田信興を自刃に追い込みます。比叡山延暦寺に庇護されて坂本周辺に布陣した浅井・朝倉軍と対峙した「志賀の陣」では、重臣・森可成と信長の弟・織田信治が宇佐山城の戦いで討死する苦境に立たされ、信長は朝廷の勅命を仰いで年末にいったん和睦を結ばざるを得ませんでした。

この危機を経て、信長は琵琶湖周辺の交通・軍事拠点の徹底的な掌握に乗り出します。翌元亀2年(1571年)9月、再三の中立・退去要請を拒んで浅井・朝倉方を支援し続けた比叡山延暦寺を包囲して焼き討ちを断行し、根本中堂以下の堂塔を焼失させるとともに、湖西・志賀郡を明智光秀に与えて坂本城を築かせ、琵琶湖西岸と京都東方の水陸交通路を掌握しました。

元亀3年(1572年)末から翌元亀4年(1573年)春にかけては、甲斐の武田信玄が西上作戦を開始して三方ヶ原で徳川軍を破り、これに呼応した将軍・足利義昭が挙兵するなど、反信長勢力の連携は頂点に達しました。しかし同年4月に信玄が陣中で病没すると、信長は第2回で見たとおり7月に義昭を山城・槙島城に攻めて追放し、その勢いのまま8月に3万の軍勢を率いて北近江から越前へ進撃します。刀根坂の戦いで朝倉義景軍に壊滅的打撃を与えた信長軍は、朝倉氏5代103年の繁栄を誇った一乗谷(福井市)の城下町へなだれ込んで義景を自刃に追い込み、返す刀で小谷城を包囲しました。羽柴秀吉が京極丸を奪取して浅井久政・長政父子の連絡を遮断すると、9月1日に長政は自刃して果て、3年余りにわたり信長を苦しめた浅井・朝倉両氏はここに滅亡しました。

一向一揆・武田勝頼との戦いと陣地・兵站の運用

浅井・朝倉を滅ぼし畿内北方の脅威を取り除いた信長が次に対峙したのは、各地の一向一揆と、亡き信玄の遺志を継いで積極策に出た甲斐の武田勝頼でした。

天正2年(1574年)7月、信長は過去2度の侵攻で氏家卜全や林通政ら有力武将を失っていた尾張・伊勢国境の長島一向一揆に対し、陸路の大軍と九鬼嘉隆らの水軍船団を動員して四方から完全包囲しました。木曽三川が網の目のように流れる河口デルタの砦群を兵糧攻めで追い詰め、9月末までに長島願証寺を陥落させて後顧の憂いを断ちます。

翌天正3年(1575年)4月、武田勝頼が1万5千の軍勢を率いて三河へ侵攻し、徳川方に帰属していた奥平信昌の守る長篠城を包囲すると、信長は自ら3万の大軍を率いて出陣し、徳川家康の軍8千と合流して長篠城西方・設楽原(愛知県新城市)の丘陵地帯に布陣しました。5月21日に行われた長篠・設楽原の戦いについて、後世の軍記等では「3千挺の鉄砲を1千挺ずつ3組に分けて交互に撃つ三段撃ちで旧弊な武田騎馬隊を粉砕した」という図式が広く流布しました。

しかし近年では、現地の設楽原歴史資料館(新城市公式ホームページ)の解説でも「設楽原決戦で用いられたとされる『鉄砲三段撃ち』。近年ではこの使われ方はなかったとされるようになりました」と明記されています。新城市公式ホームページの史跡解説によれば、織田・徳川連合軍は連吾川沿いの陣地の前に武田騎馬軍団の進撃を阻止する「馬防柵」を巡らせて鉄砲隊を並べて待ち構えるとともに、徳川家の重臣・酒井忠次率いる約3千〜4千の別動隊が夜中に設楽原を出発して大迂回し、夜明けに武田方の後方・鳶ヶ巣山砦を背後から奇襲して長篠城の包囲網を崩しました。さらに、設楽原をまもる会と別府大学の共同研究による長篠城・設楽原出土の鉄砲玉(鉛弾)の科学分析では、国内産の鉛だけでなく中国や朝鮮、東南アジアのタイの鉱山で産出した鉛が含まれていたことが判明しており、信長が鉄砲玉を確保するため海外からも大量の鉛を集めていた事実が裏付けられています。

長篠の勝利からわずか3か月後の天正3年(1575年)8月、信長は越前を一時支配していた一向一揆に対しても大軍を投じて平定し、重臣・柴田勝家に越前8郡(約49万石)を与えて北ノ庄城(福井市)へ配置しました。また、摂津大坂の石山本願寺との戦い(石山合戦)では、天正4年(1576年)7月の第一次木津川口の戦いで毛利・村上水軍の焙烙火矢により織田水軍が敗北し、本願寺への海上兵糧搬入を許す苦汁をなめます。これに対して信長は九鬼嘉隆に命じ、大砲や大鉄砲を搭載し防火装甲を施した6隻の大型安宅船(いわゆる鉄甲船)を伊勢で建造させました。天正6年(1578年)11月の第二次木津川口の戦いでこの大型船団が毛利水軍を撃破したことで大坂湾の制海権は織田方の手に落ち、石山本願寺は海上補給路を絶たれて孤立を深めていきました。

調査猫

調査猫の補足

長篠・設楽原の戦いにおける織田軍の強さは、鉄砲という武器単体の新しさだけではなく、敵の突撃を減速させる連吾川の地形選定、丸太を組んだ馬防柵と土塁による陣地化、そして何よりも高価な硝石(輸入品)や鉛を大量に備蓄・補給できる堺・京都・近江の流通掌握にありました。合戦の勝敗が、戦場での武勇だけでなく平時の経済・兵站体制によって左右される時代へ移り変わっていたことがよくわかりますね。

安土城の築城と「安土山下町中掟書」

越前平定と長篠の勝利によって畿内から東海・北陸への主導権を固めた信長は、天正3年(1575年)11月、織田家の家督と美濃・尾張の支配権を嫡男・織田信忠に譲り、翌天正4年(1576年)正月より琵琶湖東岸の安土山(標高約199メートル、滋賀県近江八幡市)に新たな本拠・安土城の築城を開始しました。総奉行には丹羽長秀が任じられ、畿内・東海・北陸の10か国以上から職人や人夫が動員されました。

安土山が選ばれた理由は明確でした。北陸から京都へ向かう北国街道・東山道(中山道)を押さえる陸上交通の結節点であると同時に、当時は安土山の三方を琵琶湖の内湖が囲んでおり、湖上水運を使えば大津・坂本を経て京都へ即日連絡できる水陸の要衝だったのです。さらに、美濃・尾張を信忠に任せ、自らは京都から適度な距離を保った安土に座すことで、朝廷や公家社会の日常的なしがらみから距離を置きつつ、東西の戦線へ迅速に号令を下すことができました。

天正7年(1579年)5月に完成した安土城の天主は、石垣で築いた穴蔵(地下1階)の上に地上6階を重ねた五層七階建ての高層建築でした。外装には黒漆や朱塗りの柱・白壁とともに金箔瓦が葺かれ、最上階は八角形の平面に金の装飾が施されていました。内部の障壁画は狩野永徳ら狩野派絵師が一括して手がけ、階層ごとに儒教の聖賢、仏教(釈迦成道)、道教・花鳥など異なる主題が描かれました。また発掘調査では、天主台の下段にあたる本丸跡から京都御所の清涼殿と平面構造が類似した大規模な建物跡が確認されており、天皇の行幸などを意識した空間設計であった可能性が指摘されています。

山上の城郭と一体で整備されたのが、山麓の安土城下町でした。信長は天正5年(1577年)6月、全13か条からなる「安土山下町中掟書」(重要文化財)を発布します。第1条で「当所中を楽市として申し付けるうえは、諸座・諸役・諸公事等をすべて免除する」と宣言して既存の座の独占権や課役を廃し、他国・他領からの商人の自由な参入を促しました。さらに徳政令(債権破棄)の適用除外や、喧嘩両成敗・放火犯や盗賊の処罰など治安と商取引の保護を明文化する一方、第2条では中山道(東山道)を往来する商人に上下とも安土城下での宿泊を義務付け、第13条では近江国内の馬の売買(博労)を安土1か所に集中させました。

つまり信長の「楽市楽座」とは、近代的な意味での無制限な自由放任ではなく、寺社や旧来の商業組織が持っていた課税・独占権を否定したうえで、大名権力が直轄する城下町へ商人・物資・貨幣を強制的に集積させ、自らの保護と統制下に置く都市政策だったのです。

歴史マニア猫

歴史マニア猫の補足

安土城の大手道を実際に歩いて登ると、従来の山城のように敵を迷わせる曲がりくねった細い山道ではなく、幅約6メートルもの直線的な大石段がまっすぐ山腹へと伸びていることに圧倒されます。その両脇には羽柴秀吉や前田利家、徳川家康らの屋敷跡が整然と配置されており、安土城が戦うための要塞であると同時に、諸将や宣教師・公家を招き入れて織田政権の秩序を視覚的に体感させる壮大な政治舞台であったことが肌で感じられますよ。

家臣団の再編と方面軍体制の形成

安土城の建設と並行して、信長は家臣団と領国支配の仕組みを大きく作り替えました。尾張・美濃時代までの織田軍は、信長の本隊にすべての主要家臣が従軍し、一つの戦場から次の戦場へと転戦する形態をとっていました。しかし、支配領域が畿内・北陸・中国・東海へと拡大し、複数の強敵と同時に戦うようになると、信長一人が全戦線を直接指揮することは物理的に不可能となります。

そこで信長が構築したのが、安土を拠点とする「直属親衛軍(機動的中央軍)」と、各戦線に配置した「方面軍(管領・軍団長)」の二層構造でした。

まず安土城下には、小姓・馬廻衆・黒母衣衆・赤母衣衆などの直属家臣団と、弓・鉄砲の専業足軽部隊を常駐させました。彼らは妻子を安土へ移住させて本貫地(故郷の所領)から切り離されたことで、信長の命令一下、いつでも任意の戦線へ急行できる常備軍として機能すると同時に、検地奉行や普請奉行、外交使節などの行政実務を担う吏僚層でもありました。蒲生氏郷や堀秀政、長谷川秀一、菅屋長頼らがこの中枢を支えました。

一方、前線の広域支配には、一国から数か国規模の領国と軍事指揮権を委ねられた方面軍司令官が配置されました。越前を本拠に北陸の一向一揆および上杉氏と対峙する柴田勝家(前田利家・佐々成政・不破光治らを目付・与力として付属)、播磨姫路を拠点に中国地方の毛利氏を攻める羽柴秀吉、近江坂本と丹波亀山を拠点に畿内政務と山陰平定を担う明智光秀、伊勢・北畠家を継いだ次男・織田信雄と重臣・滝川一益、そして対石山本願寺戦を統括する佐久間信盛(のちに追放)らです。

これらの方面軍司令官の下には、現地の国衆や大名が「与力」として編成されました(例えば大和の筒井順慶や丹後の細川藤孝が明智光秀の与力となり、藤堂高虎が羽柴秀長に仕えたように、既存の領主層が織田家の軍事ピラミッドへ組み込まれました)。また信長は、制圧した近江・越前・大和・和泉・丹波などで、寺社や国人領主に所領の面積と収穫高を自己申告させる「指出検地(さしだしけんち)」を実施して知行の実態を把握し、あわせて国人たちの小規模な居城を破却させる「城割(しろわり)」を命じることで、在地勢力の自立性を削ぎ、城下町を中心とした近世的な領域支配の礎を築きました。

時代背景と関係人物

人物関係・時期影響・補足
浅井長政義弟(妹・お市の方の夫)・北近江の大名越前朝倉氏との旧盟を重んじて元亀元年(1570年)に信長から離反し、3年余りにわたり抗戦したのち天正元年(1573年)に小谷城で自刃。娘の茶々(淀殿)・初・江は救出された。
朝倉義景越前国の戦国大名足利義昭を庇護したものの自ら上洛せず、信長の上洛命令を拒んで浅井氏・延暦寺らと連携したが、天正元年(1573年)に一乗谷を攻められ滅亡。
徳川家康同盟者(三河・遠江の大名)金ヶ崎・姉川の戦いから長篠・設楽原の戦いまで一貫して信長との同盟を維持し、東方の防壁として武田氏と戦い抜いた。
武田勝頼宿敵(甲斐武田氏当主)父・信玄の死後も東美濃・遠江・三河へ激しく攻勢をかけたが、天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫した。
丹羽長秀織田家宿老・安土城普請総奉行尾張時代からの重臣として軍事・行政の双方で活躍し、天正4年(1576年)からの安土城築城では総奉行を務めた。
狩野永徳絵師(狩野派当主)信長に抜擢されて安土城天主・御殿の障壁画制作を総指揮し、豪壮華麗な桃山障壁画様式を確立した。

年表

年表

※日付・月日は当時の史料に基づく旧暦(太陰太陽暦)表記を基本とし、西暦・元号と信長の数え年(天文3年=1534年生まれを1歳として換算)を併記しています。

1570年(元亀元年)数え37歳

金ヶ崎の退き口と姉川の戦い

4月に越前朝倉氏を攻めるも浅井長政の離反により撤退。6月に徳川家康とともに姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破る。

1571年(元亀2年)数え38歳

比叡山延暦寺の焼き討ち

浅井・朝倉軍を庇護した比叡山延暦寺を9月に包囲・攻撃し、湖西・志賀郡の支配権を掌握する。

1573年(元亀4年/天正元年)数え40歳

朝倉氏・浅井氏の滅亡

7月の足利義昭追放に続き、8月に越前一乗谷の朝倉義景、9月に北近江小谷城の浅井長政を相次いで攻め滅ぼす。

1574年(天正2年)数え41歳

伊勢長島一向一揆の制圧

尾張・伊勢国境の河口デルタ地帯に拠り抗戦を続けていた長島一向一揆を大軍と船団で包囲し鎮圧する。

1575年(天正3年)数え42歳

長篠・設楽原の戦いと越前一向一揆の平定

5月に三河・設楽原で徳川家康とともに武田勝頼軍を破り、8月には越前へ侵攻して一向一揆を平定し柴田勝家を配置する。

1576年(天正4年)数え43歳

安土城の築城開始

家督と岐阜城を嫡男・信忠に譲り、琵琶湖東岸の安土山に丹羽長秀を総奉行として安土城の築城を開始する。

1577年(天正5年)数え44歳

安土山下町中掟書の発布

6月に全13か条の掟書を発布し、安土城下全体を楽市と定めるとともに中山道通行商人の寄宿義務などを規定する。

1578年(天正6年)数え45歳

第二次木津川口の戦い

九鬼嘉隆に建造させた鉄甲船(大型安宅船)を投入して大坂湾で毛利水軍を破り、石山本願寺への海上補給路を遮断する。

1579年(天正7年)数え46歳

安土城天主の完成と安土宗論

5月に五層七階の安土城天主が完成して移り住み、浄土宗と法華宗の宗論(安土宗論)を裁定して宗教統制を進める。

ゆかりの地

旅猫

旅猫の案内

第3回で扱う安土・北近江・越前・奥三河の史跡は広域にわたるため、エリアを分けて巡るのが現実的です。琵琶湖東岸の「特別史跡 安土城跡」と「滋賀県立安土城考古博物館」はJR安土駅を起点にレンタサイクルまたは徒歩で半日〜1日でセット見学でき、そこからJR北陸本線(琵琶湖線)で北上すれば浅井氏の居城「小谷城跡」へ足を延ばせます。福井市の「一乗谷朝倉氏遺跡」は北陸方面、愛知県新城市の「設楽原決戦場跡」は東海道・飯田線方面の旅として計画するのがよいでしょう。
SPOT 1

特別史跡 安土城跡

天正4年(1576年)から信長が丹羽長秀を総奉行として琵琶湖東岸の安土山に築いた居城。総石垣と瓦葺きの高層天主を備え、政権中枢として機能しました。

訪れる価値・見どころ

大手道と呼ばれる直線的な石段の両脇に羽柴秀吉や前田利家、[徳川家康](/history/articles/tokugawa-ieyasu-2)の伝承屋敷跡が並び、山頂部には黒津石で築かれた高石垣や天主台の礎石群、本丸御殿跡、信長廟、摠見寺の三重塔・二王門(重要文化財)が残っています。

営業: 8:30〜17:00(入山は16:00まで、季節により変動)
料金: 入山料 大人700円
駐車場: あり
交通: JR琵琶湖線「安土駅」から徒歩約25分、またはレンタサイクル
SPOT 2

滋賀県立安土城考古博物館

特別史跡安土城跡および近江風土記の丘に隣接し、安土城の発掘調査成果や信長の城下町支配に関する重要文化財『安土山下町中掟書』(寄託)などを調査・展示する専門博物館です。

訪れる価値・見どころ

第2常設展示室では山城から織豊系城郭への変遷や安土城の実像、発掘された金箔瓦、信長の都市政策に関する史料が体系的に展示されており、安土城跡の登城前後に訪れることで遺構の理解が深まります。

営業: 9:00〜17:00(入館は16:30まで、月曜・年末年始休館)
料金: 常設展:大人600円、大学生360円、高校生以下無料
駐車場: あり(無料、普通車70台)
交通: JR琵琶湖線「安土駅」から徒歩約25分、またはレンタサイクル約10分
SPOT 3

小谷城跡

信長の妹・お市の方が輿入れした北近江の戦国大名・浅井長政の居城であり、元亀元年(1570年)の離反から天正元年(1573年)の落城まで信長軍との激しい攻防戦の舞台となった山城です。

訪れる価値・見どころ

標高495メートルの小谷山尾根上に本丸・大堀切・京極丸・山王丸・大嶽跡などの曲輪や石垣・土塁が良好に残されており、山麓の小谷城戦国歴史資料館で合戦の経過や浅井三姉妹の歴史を学べます。

営業: 見学自由(資料館は9:00~17:00)
料金: 見学自由(小谷城戦国歴史資料館:大人300円)
駐車場: あり(無料)
交通: JR北陸本線「河毛駅」からコミュニティバス、または車で約10分
SPOT 4

設楽原決戦場跡

天正3年(1575年)5月の長篠・設楽原の戦いにおいて、信長が[徳川家康](/history/articles/tokugawa-ieyasu-2)とともに連吾川沿いの丘陵に馬防柵と陣城を築き、[武田勝頼](/history/articles/takeda-katsuyori)軍を迎え撃った主戦場です。

訪れる価値・見どころ

連吾川沿いに馬防柵が一部復元されており、信長が本陣を置いた極楽寺山や茶臼山、武田諸将の墓碑群、隣接する設楽原歴史資料館の火縄銃コレクションとあわせて防御陣地戦の地形を現地でたどれます。

営業: 常時見学可能
料金: 無料
駐車場: 設楽原歴史資料館などの駐車場を利用可
交通: JR飯田線「三河東郷駅」から徒歩約15分
SPOT 5

特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡

信長の上洛命令を拒んで浅井氏らと連携した越前守護代・朝倉義景の本拠地であり、天正元年(1573年)8月に信長軍の侵攻によって焼失・滅亡した戦国城下町跡です。

訪れる価値・見どころ

四方を山と城戸で囲まれた谷あいに朝倉館跡の唐門や4つの特別名勝庭園、武家屋敷・町屋を原寸再現した「復原町並」が整備されており、隣接する福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館とともに戦国都市の構造を体感できます。

営業: 遺跡内は常時開放(復原町並は9:00〜17:00、入場は16:30まで、年末年始休館)
料金: 遺跡散策無料(復原町並は一般330円、小中学生100円)
駐車場: あり(無料)
交通: JR越美北線「一乗谷駅」から徒歩約3分、またはJR「福井駅」からバスで約25分

まとめ

元亀元年(1570年)から天正7年(1579年)に至る約10年間は、織田信長が浅井・朝倉・比叡山・長島一向一揆・武田勝頼・石山本願寺という全方位の敵と戦いながら、戦国大名から広域政権へと脱皮していく転換期でした。長篠・設楽原の戦いに見られる馬防柵と鉄砲の組織的運用、第二次木津川口の戦いにおける大型船団の投入、そして琵琶湖畔に築かれた安土城と「安土山下町中掟書」による都市・流通政策は、いずれも個人の武勇や奇策ではなく、経済力・情報網・行政機構を動員して戦争と統治を有利に進める信長の実務的な手法を示しています。続く最終回(第4回)では、石山本願寺との講和から甲州征討による武田氏滅亡、各方面軍による最大版図の形成、そして天正10年(1582年)6月の本能寺の変に至る最晩年の軌跡をたどります。

関連リンク

参考資料・情報源

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