人物戦国時代安土桃山時代

徳川家康(第2回)武田との戦いと領国拡大

公開: 2026-10-11
静岡県、愛知県
三河を平定し、織田信長と同盟を結んだ徳川家康は、今川氏の旧領であった遠江(現在の静岡県西部)へと進出し、浜松城を新たな本拠地としました。しかし、そこは「甲斐の虎」武田信玄の脅威と直接向き合う最前線でもありました。 大名として成長を続ける家康の前に立ちはだかったのは、武田氏との戦いと、領国拡大に伴う家中の問題でした。人生最大の敗戦とされる三方ヶ原の戦いや長男・信康の自刃事件など、存亡の危機を乗り越えながら、彼はいかにして領国経営を推し進めていったのでしょうか。 激戦の舞台となった三方ヶ原古戦場や設楽原の決戦地、家康が17年間在城した浜松城など、遠江・三河の各地には戦国武将たちの足跡が色濃く残されています。
徳川家康(第2回)武田との戦いと領国拡大のイメージ

基本情報

氏名・名称徳川家康(とくがわ いえやす)
生年・没年1542年 - 1616年
出身地三河国岡崎城
主な居城・拠点浜松城
種類人物 (武将・偉人など)
時代戦国時代 / 安土桃山時代
主な地域静岡県、愛知県
関連タグ
#徳川家康#武田信玄#三方ヶ原の戦い#長篠の戦い

この連載の記事一覧(全4回)

※本記事の年表などに記載される歴史上の月日は旧暦に基づいています。また、家康の年齢は天文11年(1542年)を出生年とする数え年を基準としています。

三河一国を平定し、大名としての地位を固めた徳川家康。しかし、戦国の動乱は彼に立ち止まることを許しませんでした。織田信長と同盟を結び西の安全を確保した家康は、東の巨大な脅威である武田信玄と対峙しながら、遠江(静岡県西部)へと自らの支配領域を拡大していくことになります。

遠江への進出と浜松城築城

1568年(永禄11年)、家康は甲斐の武田信玄と密約を結び、衰退しつつあった今川領の分割に乗り出します。「大井川を境界として、東の駿河を武田が、西の遠江を徳川が切り取る」という合意のもと、家康は遠江への侵攻を開始しました。翌1569年(永禄12年)、家康は今川氏真が逃げ込んだ掛川城を長期間にわたって包囲し、数ヶ月の攻防の末に和睦・開城させることで、ついに遠江の平定を完了させます。

この遠江獲得により、家康は旧来の三河一国と合わせて二ヶ国を領有する戦国大名へと大きな飛躍を遂げました。東海道の重要な経済基盤を握ったことになりますが、同時にそれは、盟約をいつ破棄してもおかしくない強大な武田軍と長大な国境線を直接接することを意味していました。背後の安全を信長との同盟に委ね、東の巨大な脅威である武田氏と正面から対峙するという、新たな防衛戦略が求められるようになったのです。

1570年(元亀元年)、家康は本拠地を三河の岡崎から遠江の引馬(ひくま)へと移します。地名を「浜松」と改め、ここに新たな拠点として浜松城を整備しました(現在見られる強固な石垣などは、主に後の堀尾氏の時代に整備されたものです)。家康自らが最前線に立つことで、武田軍の西上ルートを直接塞ぐ防波堤となる覚悟を示したのです。この時期、家康は遠江の国衆や寺社に対して所領の安堵状を発給し、今川時代の複雑な税制を整理して徳川独自の基準を導入するなど、新領土の統治(遠江支配)を急ピッチで進めていました。単なる軍事占領にとどまらず、地域の在地勢力から正当な統治者としての支持を取り付けるための地道な行政努力が続けられていたのです。

一方で、旧領の岡崎城には嫡男の信康を城主として置き、三河武士たちを中心とした家臣団を「岡崎衆(信康付き)」と「浜松衆(家康付き)」に二分して配置しました。

調査猫

調査猫の補足

岡崎・浜松の二拠点体制と家臣団内部の関係は、信康事件の背景を考える論点の一つです。ただし、事件の原因は確定していません。

三方ヶ原の戦いの大敗と教訓

家康の懸念は現実のものとなります。1572年(元亀3年)秋、武田信玄が同盟を破棄し、約2万7千の大軍を率いて遠江へ侵攻を開始しました。対する家康軍は、織田からの援軍を合わせても1万余りであり、兵力差は圧倒的でした。

信玄の進軍は凄まじく、徳川軍の防衛線を次々と突破します。遠江の北の玄関口であり、天竜川と二俣川の合流点に位置する交通・軍事の要衝である二俣城(浜松市天竜区)も、武田軍の猛攻と水の手を断たれるという過酷な攻城戦の末に陥落しました。重要な防衛拠点を失ったことで、家康は浜松城での籠城か、あるいは出撃かという絶望的な二者択一を迫られることになります。

信玄は、家康の籠る浜松城を素通りし、三河方面へと軍を進めました。これを見た家康は、籠城を主張する家臣の反対を押し切って出撃し、武田軍の背後を突こうとします。 なぜ家康は無謀とも言える出撃をしたのか。近年では「自領を素通りされるのを黙って見ていれば、遠江の国衆たちからの信頼を失い、大名としての権威が崩壊してしまうため、負けを覚悟で戦う姿勢を見せる必要があった」という政治的・戦略的な判断が指摘されています。

浜松城北方の台地、三方ヶ原(みかたがはら)へと向かった家康軍ですが、そこには撤退すると見せかけて反転し、万全の陣形(魚鱗の陣)を敷いて待ち受けていた武田軍の姿がありました。家康は鶴翼の陣で対抗し、緒戦こそ本多忠勝らの勇猛な突撃で一部の武田勢を押し返したものの、歴戦の武田軍は微動だにしませんでした。陣形を整え直した武田軍の猛烈な反撃が始まると、圧倒的な兵力差と洗練された集団戦術の前に徳川軍は為す術もなく、わずか2時間ほどで総崩れとなります。家康自身も討ち死に寸前まで追い詰められましたが、夏目吉信や鈴木久三郎といった身代わりの家臣たちの多大な犠牲により、命からがら浜松城へと逃げ帰ることができました。この「三方ヶ原の戦い」は、家康の生涯において最大の戦術的敗北として歴史に刻まれています。

旅猫

旅猫の案内

浜松市の犀ヶ崖(さいががけ)周辺は、この激戦の舞台の一つです。犀ヶ崖資料館では、三方ヶ原の戦いの詳細な解説や、戦死者の霊を慰めるために始まったとされる郷土芸能「遠州大念仏」の資料が展示されており、戦いの凄惨さを今に伝えています。

長篠の戦いと高天神城をめぐる攻防

三方ヶ原の戦いの翌年(1573年)、武田信玄が陣中で病死したことで、家康は絶体絶命の危機を脱します。しかし、跡を継いだ武田勝頼もまた油断ならない将でした。 1574年(天正2年)、勝頼は武田軍の総力を挙げ、遠江の最重要拠点である高天神城(掛川市)を大軍で包囲します。猛烈な攻撃の前に城の防衛設備は次々と破られ、ついに城将の小笠原長忠(氏助)は武田軍に降伏・開城してしまいました。「高天神を制する者は遠州を制する」と謳われた難攻不落の要衝を奪われたことは、家康にとって遠江支配の根底を揺るがす大打撃であり、周囲の国衆たちの間にも武田への寝返りを誘発するほどの深刻な危機をもたらしました。

劣勢を跳ね返す転機となったのが、1575年(天正3年)の「長篠の戦い(設楽原の戦い)」です。三河へ侵攻してきた武田軍に対し、家康は織田信長に大規模な援軍を要請しました。決戦において、家康の重臣・酒井忠次が率いる別働隊が武田軍の背後にある鳶ヶ巣山(とびがすやま)砦を夜襲で陥落させるという決定的な働きを見せます。これにより退路を断たれ、前に出るしかなくなった武田軍を、織田・徳川連合軍は馬防柵と大量の鉄砲を用いた新戦術で迎え撃ち、当時最強と謳われた武田軍を打ち破って歴史的な大勝利を収めました。

この勝利を機に、家康は遠江の失地回復に向けて反撃に転じます。その最終目標が、武田に奪われた高天神城の奪還でした。 家康は無謀な力攻めを避け、高天神城を奪還するための長期的な戦略に出ます。高天神城を包囲するための前線基地として横須賀城を築き、さらに高天神城の周囲に「高天神六砦」(小笠山、能ヶ坂、火ヶ峰、獅子ヶ鼻、中村、三井山の6つの砦)などを構築して、外界からの補給路を完全に絶つという、徹底した兵糧攻め(城の締め殺し)を実行します。1581年(天正9年)、長きにわたる包囲の末に城内の食料は完全に尽き、城将・岡部元信をはじめとする武田方の将兵は次々と餓死するか、決死の突撃を行って討ち死にしていきました。勝頼は東から迫る織田軍の脅威により高天神城へ援軍を送ることができず、結果的に城を見殺しにしてしまいます。 これにより「勝頼は窮地の味方を見捨てる」という悪評が武田領内に広まり、武田氏の威信は完全に失墜しました。遠江から武田の勢力は一掃され、この敗北が翌年の武田氏滅亡へと直結していくのです。

信康と築山殿の事件(内部対立説)

武田氏との戦いが激しさを増す一方で、徳川家内部では大きな悲劇が起きていました。1579年(天正7年)、家康の正室である築山殿と、嫡男の信康が死に追いやられた事件です。

従来の通説では、信康の正室・徳姫(織田信長の娘)が父・信長に宛てた訴状の中で「築山殿と信康が武田と内通している」と記したことが発端とされ、これに激怒した信長が家康に処断を命じたとされてきました。 しかし現在では、単なる信長の命令によるものだけでなく、徳川家臣団内部における派閥の対立や、織田・武田との外交方針をめぐる見解の相違など、より複雑な政治的背景があったとする研究も進められています。領国を統治・拡大していく過程で抱え込んだ組織構造の歪みや、長引く対武田戦の疲弊が、家中を二分する深刻な亀裂を生んでいたのではないかという見方です。

歴史マニア猫

歴史マニア猫の補足

信康事件は信長の理不尽な命令として語られがちですが、家臣団内部の対立や複雑な情勢が背景にあったとする見方も提唱されており、現在も様々な角度から検証が続けられています。

時代背景と関係人物

人物関係・時期影響・補足
武田信玄宿敵(1568〜1573)甲斐国の戦国大名。三方ヶ原の戦いで家康に大勝し、家康に戦の恐ろしさと兵法の基礎を叩き込んだ最大の壁。
武田勝頼敵将(1573〜1582)信玄の跡を継いだ武田家当主。高天神城を落とすなど家康を苦しめたが、長篠の戦いと高天神城の喪失により威信を失い衰退した。
徳川信康家康の長男岡崎城主。1579年、二俣城で自刃。事件の背景には複数の説がある。
築山殿家康の正室今川氏の出身。信康事件に連座し、1579年に浜松への護送中に家臣によって暗殺された。
鳥居強右衛門長篠城の足軽長篠の戦いの前哨戦において、包囲された城から抜け出して岡崎の家康に援軍を要請し、味方に希望を与えて処刑された。

年表

※年齢は数え年で表記

1568年(永禄11年)数え27歳

武田信玄と密約を結び、遠江へ侵攻を開始する。

1569年(永禄12年)数え28歳

今川氏真が籠る掛川城を和睦・開城させ、遠江を平定。

1570年(元亀元年)数え29歳

本拠地を岡崎城から遠江の浜松城へ移す。

1572年(元亀3年)数え31歳

三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍勢に大敗を喫し、浜松城へ退却する。

1573年(天正元年)数え32歳

武田信玄が陣中で病死。武田軍が撤退し、危機を脱する。

1574年(天正2年)数え33歳

武田勝頼の大軍により、遠江の重要拠点である高天神城が落城する。

1575年(天正3年)数え34歳

長篠の戦い(設楽原の戦い)で織田信長と共に武田勝頼軍を打ち破る。

1579年(天正7年)数え38歳

長男・信康と正室・築山殿を死に追いやる(信康事件)。

1581年(天正9年)数え40歳

兵糧攻めにより高天神城を奪還。遠江から武田勢力をほぼ一掃する。

ゆかりの地

SPOT 1

浜松城

武田氏の侵攻に備えて家康が遠江支配の拠点として築城し、17年間を過ごした城。

訪れる価値・見どころ

野面積みの石垣が往時の姿を伝える。天守閣(復興)内部には家康の青年期の資料などが展示されている。

営業: 8:30〜16:30(天守閣)
料金: 大人200円、中学生以下無料(天守閣)
駐車場: あり(有料。最初の90分無料)
交通: JR浜松駅から徒歩約20分、またはバスで約5分「市役所南」下車
SPOT 2

犀ヶ崖資料館(三方ヶ原古戦場関連)

三方ヶ原の戦いの激戦地周辺。家康が仕掛けた奇襲(犀ヶ崖の戦い)の舞台とされる。

訪れる価値・見どころ

古戦場の断崖絶壁が残る。資料館では三方ヶ原の戦いの詳細な解説や、郷土芸能の資料を展示。

営業: 9:00〜17:00、月曜休館
料金: 無料
駐車場: あり(無料)
交通: JR浜松駅からバス「浜松北高」または「さいが崖」下車すぐ
SPOT 3

設楽原決戦場跡

長篠の戦いにおいて、織田・徳川連合軍と武田軍が実際に激突した主戦場。

訪れる価値・見どころ

織田・徳川軍が構築した「馬防柵」が一部復元されており、鉄砲を用いた新戦術の舞台を体感できる。

営業: 常時見学可能
料金: 無料
駐車場: 設楽原歴史資料館などの駐車場を利用可
交通: JR飯田線「三河東郷駅」から徒歩約15分
SPOT 4

二俣城跡

天竜川と二俣川の合流点に位置する要衝。武田氏との争奪戦の舞台となり、長男・信康が切腹させられた地。

訪れる価値・見どころ

本丸跡の石垣などが残る。信康の廟所がある清瀧寺も隣接している。

営業: 常時見学可能
料金: 無料
駐車場: なし(周辺の駐車場等を利用)
交通: 天竜浜名湖鉄道「二俣本町駅」から徒歩約15分
SPOT 5

高天神城跡

「高天神を制する者は遠州を制する」と謳われた要衝。家康が兵糧攻めで武田氏から奪還し、遠江支配を決定づけた。

訪れる価値・見どころ

急峻な地形を活かした山城の遺構が良好に残り、国指定史跡および続日本100名城に選定されている。

営業: 常時見学可能
料金: 無料
駐車場: あり(南口・北口に無料駐車場)
交通: JR掛川駅からバス「土方」下車徒歩約15分

まとめ

浜松城を築き遠江の支配に乗り出した家康の壮年期は、常に武田氏という巨大な脅威との軍事的な緊張状態にありました。 三方ヶ原の戦いでの敗北は、大名としての権威を維持するための苦渋の決断が招いた惨劇でした。家康はこの敗戦から多くを学び、長篠の戦いでは織田信長と連携して武田軍を打ち破り、さらには高天神城の兵糧攻めという冷徹な戦略によって失地を回復します。

その一方で、嫡男と正室を排除する事件も起こりました。この信康事件は、長引く戦乱による家中の疲弊や組織内の亀裂など、複雑な背景が存在したとする見方もあります。外からの軍事的圧力と、内からの組織分裂の危機。これら数々の存亡の危機を乗り越えながら、家康は遠江の支配を固め、より冷徹で合理的な戦国大名へと脱皮していったのです。

次回(第3回)は、武田家滅亡直後に起きた「本能寺の変」の混乱から、天下人へと台頭する豊臣秀吉との小牧・長久手の戦い、そして臣従と関東への大規模な移封という激動の時代を描きます。

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