
徳川御三卿|田安・一橋・清水の成立、屋敷と蔵米の仕組み、将軍継承

基本情報
| 氏名・名称 | 徳川御三卿(田安・一橋・清水)(とくがわごさんきょう) |
|---|---|
| 主な居城・拠点 | 江戸城田安門内屋敷、一橋門外(内)屋敷、清水門内屋敷(現在の東京都千代田区北の丸公園・一ツ橋周辺) |
| 家族・一族 | 田安徳川家(祖:吉宗次男・徳川宗武)、一橋徳川家(祖:吉宗四男・徳川宗尹)、清水徳川家(祖:家重次男・徳川重好) |
| 種類 | 人物 (武将・偉人など) |
| 時代 | 江戸時代 |
| 主な地域 | 東京都、茨城県 |
| 関連タグ | #徳川一族#徳川御三卿#田安徳川家#一橋徳川家#清水徳川家#徳川吉宗 |
この連載の記事一覧(全5回)
- 第1回:徳川将軍家|宗家の継承、正室・側室と分家が支えた二百六十五年
- 第2回:徳川家康の子と、その家々|宗家・御三家以外の諸子と娘たちの婚姻網
- 第3回:徳川家康の孫と、広がる松平家|越前・会津・奥平・高松と松平諸家の系譜
- 第4回:徳川御三家|尾張・紀伊・水戸の成立、領国と将軍家を支えた三つの立場
- 第5回:徳川御三卿|田安・一橋・清水の成立、屋敷と蔵米の仕組み、将軍継承(現在の記事)
※本記事の年表および本文中に記載される歴史上の月日は、当時の旧暦(太陰太陽暦)に基づいています。
はじめに――なぜ8代将軍吉宗は「御三家」とは別に「御三卿」を創設したのか
正徳6年(1716年、享保元年)、7代将軍・徳川家継が数え8歳で早世したことにより、2代秀忠・3代家光以来の将軍宗家の直系男系が途絶えました。このとき紀伊徳川家から迎えられて8代将軍となった徳川吉宗は、自らの経験を通じて幕府の継承制度が抱える構造的な課題に直面します。
前回(第4回)で見たように、家康が創設した「御三家(尾張・紀伊・水戸)」は、幕府開府から100年以上が経過するなかで世代交代が進み、将軍宗家との血縁が次第に遠くなっていました。しかも御三家はそれぞれ名古屋・和歌山・水戸という巨大な領国と独自の家臣団を抱える独立大名であり、そこから藩主が将軍宗家へ入ると、旧藩の家臣団の処遇や幕閣との摩擦など、政治的に大きな負担を伴いました。また、かつて3代家光の次男・綱重(甲府徳川家25万石[のち35万石])や四男・綱吉(館林徳川家25万石)のように将軍の次男以下に新たな大藩を与える方式は、幕府直轄領(天領)を大幅に減らし、幕府財政を圧迫するという問題がありました。
そこで吉宗は、長男の家重(のちの9代将軍)に宗家を継がせる一方、次男の徳川宗武(むねたけ)と四男の徳川宗尹(むねただ)に対し、独立した藩(城や城下町)を与えるのではなく、江戸城内の門の近くに屋敷と10万石の賄料(まかないりょう)を与えて「将軍宗家の家族(部屋住みの延長)」として存続させる新しい仕組みを考案しました。さらに9代将軍となった家重も、次男の徳川重好(しげよし)に同様の屋敷と賄料を与えます。
こうして成立した田安徳川家・一橋徳川家・清水徳川家の3家が「徳川御三卿(ごさんきょう)」です。連載最終回となる第5回では、御三卿の成立過程と独特の家の仕組み、御三家との違い、そして江戸後期から幕末・明治に至る将軍継承で果たした決定的な役割を解説します。
田安・一橋・清水の成立過程
御三卿の3家は、享保16年(1731年)から宝暦12年(1762年)までの約30年間をかけて順次創設されました。「御三卿」の名称は、各家の当主が朝廷から従三位・参議や権中納言・権大納言などの「公卿(くぎょう=三位以上および参議)」の官位に任じられたことに由来します。
- 田安徳川家(享保16年[1731年]創設): 祖は8代将軍吉宗の次男・徳川宗武(幼名・小次郎、1715年〜1771年)です。兄の徳川家重(9代将軍)が病弱で言語が不明瞭であったのに対し、宗武は聡明で文武に優れ、賀茂真淵に師事して国学や有職故実の研究にも深い造詣を持っていました。老中・松平乗邑(のりさと)らが宗武への将軍継嗣変更を模索したともいわれますが、吉宗は長子相続の原則を厳格に貫いて家重を世子と定めました。そのうえで享保16年(1731年)1月、数え17歳の宗武に江戸城北の丸の田安門内(現在の日本武道館周辺)に屋敷と合力米3万俵を与え、延享3年(1746年)9月には改めて賄料10万石を給付しました。
- 一橋徳川家(元文5年[1740年]創設): 祖は吉宗の四男・徳川宗尹(幼名・小五郎、1721年〜1764年)です(三男の源三は早世)。元文5年(1740年)11月、数え20歳の宗尹に江戸城の一橋門内(現在の大手町・一ツ橋周辺)の屋敷と3万俵が与えられ、兄・宗武と同じ延享3年(1746年)9月に賄料10万石が給付されて一橋家が確立しました。
- 清水徳川家(宝暦8年[1758年]〜宝暦12年[1762年]創設): 祖は9代将軍・徳川家重の次男・徳川重好(幼名・万次郎、1745年〜1795年)です。家重は父・吉宗の施策にならい、長男の家治(10代将軍)の藩屏として、宝暦8年(1758年)に重好へ江戸城北の丸の清水門内(現在の北の丸公園東側・科学技術館周辺)に屋敷を造営させ、宝暦9年(1759年)の移徙(わたまし=転居)を経て、10代家治代の宝暦12年(1762年)5月に賄料10万石を給付しました。これによって田安・一橋・清水の「御三卿」が出揃いました。
御三家との決定的な違い――「藩を持たない家」の仕組み
御三家(尾張・紀伊・水戸)と御三卿(田安・一橋・清水)は、ともに「徳川」の姓と葵紋を許された将軍家の近親ですが、その制度上の仕組みはまったく異なっていました。主な違いは以下の4点に集約されます。
1. 独立した城・城下町を持たず、江戸城内の屋敷に居住する
御三家が名古屋城・和歌山城・水戸城という国元の城郭と広大な藩領を統治する「大名(藩)」であったのに対し、御三卿は国元の城を持たず、江戸城の郭内(田安門内・一橋門内・清水門内)に屋敷を構えるのみでした。そのため参勤交代も存在せず、当主は原則として江戸を離れることはありませんでした。
2. 幕府の代官が年貢を徴収する「賄料10万石」
御三卿にはそれぞれ10万石の領知(賄料=まかないりょう)が武蔵・下総・甲斐・摂津・和泉・播磨などの天領から割り当てられました。しかし、御三卿が独自に検地や年貢徴収を全面的に行ったわけではなく、実務の多くは幕府の勘定奉行配下の代官が担い、徴収された年貢米・金が御三卿の屋敷へ納入される仕組みでした。これにより、幕府は直轄領の支配権を事実上失うことなく、3つの近親家を少ない財政負担で維持することができたのです。
3. 独自の世襲家臣団を持たず、幕臣が出向する「附人(つきびと)」制度
御三卿の家老や用人、番士などの家臣団は、三河以来の独立した譜代家臣ではなく、幕府の旗本や御家人が幕命によって出向する「附人(つきびと)」を中心に構成されていました。したがって、御三卿から当主が将軍宗家へ養子として入っても、紀伊藩から吉宗が入ったときのように「旧藩の家臣を大量に幕臣へ編入する」といった軋轢が生じにくい利点がありました。
4. 当主不在でも絶家にならない「明屋敷(あきやしき)」
通常の大名家では、当主が嗣子なく死去すれば「無嗣絶家(改易)」となり、城と領地は没収され家臣団は浪人となりました。しかし御三卿は、そもそも将軍宗家の「家族・部屋住み」の枠組みであるため、当主が嗣子なく死去したり、他家(将軍宗家や御三家など)へ養子に出て当主が不在になったりしても、家が消滅することはありませんでした。これを「明屋敷(あきやしき)」と呼びます。明屋敷の間は10万石の賄料がいったん幕府(公儀)へ返上されますが、屋敷と役職機構はそのまま維持され、のちに将軍に次男以下の男子が生まれると再びその屋敷に入って家名を継ぐという、極めて柔軟な「器(うつわ)」として機能したのです。

調査猫の補足
「明屋敷」の好例が清水徳川家です。初代・徳川重好が寛政7年(1795年)に実子なく死去した後、清水家は明屋敷となりましたが、その後11代将軍家斉の五男・敦之助、六男・斉順(のち紀伊藩主)、十一男・斉明、二十一男・斉彊(のち紀伊藩主)、さらに水戸斉昭の八男・昭武(パリ万博派遣)らが次々と清水家の当主に入り、幕末まで家の枠組みが維持されました。
将軍継承と幕政の中心となった一橋家と田安家
この御三卿の仕組みが最も大きな威力を発揮したのが、10代将軍・徳川家治の後継問題と、それ以降の幕政でした。
田安家からの松平定信放出と、一橋家からの11代将軍・徳川家斉の誕生
田安家では、初代・徳川宗武の子として宝暦8年(1758年)に七男の賢丸(のちの松平定信)が生まれました。聡明であった賢丸は次期将軍の有力候補とも目されましたが、安永3年(1774年)、10代将軍家治と老中・田沼意次のもとで、奥州白河藩11万石の久松松平家(松平定邦)へ養子に出ることが命じられます。田安家は直後に2代治察(はるさと)が嗣子なく死去したため、約13年間にわたり「明屋敷」となりました。
一方、一橋家では初代・宗尹の四男である2代徳川治済(はるさだ)に、長男の豊千代が生まれていました。安永8年(1779年)に10代将軍家治の世子・徳川家基が18歳で急死すると、天明元年(1781年)閏5月、一橋治済の長男・豊千代が家治の養嗣子として江戸城西の丸に迎えられ、天明7年(1787年)4月に11代将軍・徳川家斉に就任しました。御三卿創設の目的であった「宗家直系が絶えた際の将軍継嗣の供給」が、一橋家によって初めて実現したのです。
同じ天明7年(1787年)6月、白河藩主となっていた田安宗武の子・松平定信が老中首座(翌年には将軍補佐)に就任して「寛政の改革」を開始し、また将軍家斉の弟・徳川斉匡が田安家3代に入って田安家の明屋敷状態を解消しました。その後、定信が将軍家斉の実父・一橋治済に「大御所」の尊号を贈ることに反対した「尊号一件(寛政5年[1793年])」を経て定信が失脚すると、家斉と一橋治済が幕政の実権を掌握し、以後、12代家慶・13代家定・14代家茂(家斉の孫)に至るまで、将軍宗家の血統は一橋家出身の家斉の系統によって受け継がれていきました。
幕末の一橋慶喜(15代将軍)と田安亀之助(16代宗家当主・徳川家達)
幕末の動乱期においても、政局の中心に立ったのは一橋家と田安家でした。
弘化4年(1847年)9月、12代将軍・徳川家慶の命により、水戸藩主・徳川斉昭の七男である七郎麻呂が一橋家9代当主として迎えられ、一橋慶喜と名乗りました。慶喜は安政5年(1858年)の将軍継嗣問題では一橋派に推されて紀州の慶福(14代家茂)と争い、安政の大獄で一時隠居・謹慎を命じられましたが、文久2年(1862年)に「将軍後見職」として幕政に復帰し、禁裏御守衛総督として京都の政局を主導したのち、慶応2年(1866年)に14代家茂の死去を受けて徳川宗家を相続し、15代将軍となりました。
そしてもう一方の田安家では、5代斉匡の子である松平春嶽(慶永)が越前福井藩へ養子に出て幕末の四賢侯の一人として活躍し、田安本家を継いだ7代・徳川慶頼の三男として文久3年(1863年)に田安亀之助(のちの徳川家達[いえさと])が生まれました。慶応4年(1868年)4月の江戸無血開城後、謹慎した15代慶喜に代わって徳川宗家16代当主となったのが、この数え6歳の田安亀之助(家達)でした。

歴史マニア猫の補足
8代吉宗から16代家達までの徳川宗家の流れを振り返ると、吉宗の直系(9代家重・10代家治)が絶えた後は、一橋家から11代家斉(〜14代家茂)と15代慶喜の2系統が将軍となり、明治維新の徳川宗家16代は田安家の家達が継いでいます。つまり江戸時代後半から近代にかけての徳川宗家は、事実上「御三卿(一橋・田安)」によって完全に支えられていたのです。
時代背景と関係人物
| 人物 | 関係・時期 | 影響・補足 |
|---|---|---|
| 徳川吉宗 | 8代将軍・御三卿創設者(在職1716年〜1745年) | 紀伊家から宗家を継いだ経験を踏まえ、宗家の血統を守る江戸城内の近親家として田安家・一橋家を創設した。 |
| 徳川宗武 | 田安徳川家初代(1715年〜1771年) | 吉宗の次男。享保16年に田安門内に屋敷を賜り、国学・有職故実の研究に業績を残すとともに松平定信らの父となった。 |
| 徳川宗尹 | 一橋徳川家初代(1721年〜1764年) | 吉宗の四男。元文5年に一橋門内に屋敷を賜り、孫の代に11代将軍家斉を出して以後の将軍血統の源流となった。 |
| 徳川重好 | 清水徳川家初代(1745年〜1795年) | 9代将軍家重の次男。宝暦年間に清水門内に屋敷と10万石を与えられ、田安・一橋と並ぶ御三卿体制を完成させた。 |
| 松平定信 | 田安宗武の七男・白河藩主(1758年〜1829年) | 田安家から白河松平家へ養子に出された後、天明7年に老中首座・将軍補佐となって寛政の改革を断行した。 |
| 徳川治済 | 一橋徳川家2代(1751年〜1827年) | 宗尹の四男。長男・豊千代を11代将軍家斉として宗家へ送り込み、将軍実父として化政期の幕政に大きな影響力を持った。 |
| 徳川慶喜 | 一橋徳川家9代・のち15代将軍(1837年〜1913年) | 水戸斉昭の七男。弘化4年に一橋家を継ぎ、将軍後見職を経て慶応2年に宗家を相続し15代将軍となった。 |
| 徳川家達(田安亀之助) | 田安徳川家・のち徳川宗家16代(1863年〜1940年) | 田安7代慶頼の三男。慶応4年に慶喜の後を受けて徳川宗家16代を相続し、静岡藩知事、のち公爵・貴族院議長を務めた。 |
年表
年表
※月日は当時の旧暦(太陰太陽暦)を基準に表記
8代将軍吉宗が次男・徳川宗武に江戸城田安門内の屋敷を与え、田安家が発足
本丸から独立した屋敷と賄料3万俵が与えられ、新たな将軍近親の家としての枠組みが始まる。
吉宗が四男・徳川宗尹に江戸城一橋門内の屋敷を与え、一橋家が発足
兄・宗武と同様に賄料3万俵と一橋門内の屋敷を与えられ、田安家と並ぶ両卿体制となる。
田安宗武と一橋宗尹にそれぞれ領知(賄料)10万石が給付される
吉宗の隠居(延享2年)の翌年、関東・甲斐・畿内などに分散する10万石の賄料知行が与えられ、経済的基盤が確立する。
9代将軍家重の次男・徳川重好が江戸城清水門内に屋敷と10万石を与えられ、清水家が成立
これにより田安・一橋・清水の「御三卿」が出揃い、三位(参議・中納言等)に叙せられる家格が定まる。
田安宗武の七男・松平定信が白河松平家へ養子に出され、のち老中首座・将軍補佐となる
田安家は定信放出と2代治察の早世により一時当主不在の「明屋敷」となるが、定信は天明7年に老中首座として寛政の改革を主導する。
一橋家2代・徳川治済の長男・豊千代(徳川家斉)が10代将軍家治の養嗣子となり、11代将軍に就任
御三卿から初めて将軍宗家を相続。実父の一橋治済が将軍実父として幕政に強い影響力を持つ。
清水家初代・徳川重好が嗣子なく死去し、清水家が最初の「明屋敷(当主不在)」となる
独立した藩ではないため絶家・廃藩とはならず、領地をいったん幕府へ返上して屋敷と機構を維持し、のちに11代将軍家斉の実子らが順次相続する。
水戸藩主・徳川斉昭の七男・七郎麻呂が一橋家を相続(一橋慶喜)し、のち15代将軍に就任
将軍後見職・禁裏御守衛総督などを歴任した一橋慶喜が、14代家茂の死去を受けて徳川宗家を相続し15代将軍となる。
田安家の田安亀之助(徳川家達)が徳川宗家16代を相続
田安家7代・徳川慶頼の三男である亀之助(家達)が慶喜謹慎後の徳川宗家を継ぎ、静岡藩70万石の藩主(知藩事)となる。
ゆかりの地

旅猫の案内
旧江戸城田安門(北の丸公園)
8代将軍吉宗の次男・徳川宗武が享保16年(1731年)に屋敷を構えた「田安徳川家」の屋敷跡に隣接する城門。「田安」の家名はこの田安門に由来する。
訪れる価値・見どころ
寛永13年(1636年)に建てられた現存最古級の旧江戸城建築(国指定重要文化財)であり、高麗門と渡櫓門からなる堅固な枡形門と、西側にあった田安邸跡(現・日本武道館周辺)の立地を見学できる。
一橋徳川家屋敷跡(千代田区一ツ橋)
8代将軍吉宗の四男・徳川宗尹が元文5年(1740年)に屋敷を賜り、11代将軍家斉や15代将軍慶喜を輩出した「一橋徳川家」の屋敷跡。
訪れる価値・見どころ
現在の一ツ橋一丁目(丸紅ビル・パレスサイドビル周辺)にあたり、日本橋川に架かる一ツ橋の南詰(丸紅ビル北東角の植え込み)に「一橋徳川家屋敷跡」の石碑と案内板が設置されている。
旧江戸城清水門(北の丸公園)
9代将軍家重の次男・徳川重好が宝暦年間に屋敷を賜った「清水徳川家」の屋敷跡に隣接する城門。「清水」の家名はこの清水門に由来する。
訪れる価値・見どころ
田安門と並ぶ国の重要文化財であり、明暦4年(1658年)再建の渡櫓門と高麗門、巨石を積み上げた枡形石垣と雁木坂が往時の姿を今に伝える。
茨城県立歴史館(一橋徳川家記念室)
一橋徳川家当主であった15代将軍・徳川慶喜のゆかりの地である水戸市に所在し、一橋徳川家から寄贈された歴代当主の甲冑・刀剣・調度・古文書約7,000点を収蔵する博物館。
訪れる価値・見どころ
国指定重要文化財を含む一橋徳川家伝来の大名道具や古文書を収蔵するほか、庭園には江戸後期建築の旧水海道小学校本館や旧茂木家住宅が移築されている。※令和8年度(2026年度)は本館空調設備更新工事等のため、1階展示室および一橋徳川家記念室は年間休室(2階展示室の一部と庭園のみ公開)。
まとめ――全5回「徳川一族」連載の結びとして
全5回にわたって「徳川一族」の家の仕組みと広がりをたどってきました。
- 第1回(徳川将軍家)では、正室(御台所)と大奥の側室、二大菩提寺と東照宮、そして分家からの養子継承によって265年間の宗家を維持した構造を見ました。
- 第2回(家康の子と、その家々)では、信康・結城秀康・松平忠吉・武田信吉・松平忠輝の処遇と、亀姫・督姫・振姫らの婚姻・再嫁が初期幕政の骨格を作った過程を確認しました。
- 第3回(家康の孫と、広がる松平家)では、越前松平家・会津松平家・奥平松平家・高松松平家など孫世代の分立と、「親藩松平・譜代十八松平・外様への松平賜姓」の3分類を整理しました。
- 第4回(徳川御三家)では、尾張・紀伊・水戸の三家が東海・南海・北関東(江戸定府)という異なる立場で将軍家を支えた歩みをたどりました。
- そして本稿第5回(徳川御三卿)では、8代吉宗が創設した「藩を持たない江戸城内の分家」である田安・一橋・清水の3家が、11代家斉・15代慶喜・16代家達を生み出して幕末・近代まで徳川宗家の血脈をつないだ歴史を見ました。
一人の英雄の伝記としてだけでなく、「宗家・親藩松平家・御三家・御三卿」という幾重もの安全網(セーフティネット)として徳川一族を捉え直すと、なぜ江戸幕府が265年もの泰平を保ち得たのか、そして全国の城郭や庭園・霊廟がどのような意味を持って配置されていたのかが、立体的に浮かび上がってきます。


