人物江戸時代

徳川御三家|尾張・紀伊・水戸の成立、領国と将軍家を支えた三つの立場

公開: 2026-10-27
愛知県、和歌山県、茨城県
江戸時代を通じて、徳川将軍家(宗家)に次ぐ別格の格式を持ち、「徳川」の姓と三つ葉葵の紋を公称することを許された特別な3つの大名家がありました。家康の九男・義直を祖とする尾張徳川家(名古屋藩61万9千5百石)、十男・頼宣を祖とする紀伊徳川家(和歌山藩55万5千石)、十一男・頼房を祖とする水戸徳川家(水戸藩35万石)の「徳川御三家(ごさんけ)」です。 御三家は単に石高の大きい親藩だったわけではありません。東海道・南海道・北関東という軍事上の最重要拠点を押さえるとともに、宗家に世継ぎが絶えた際には将軍の養嗣子を送り出し、また幕政の危機には将軍を補佐・監督する役割を担いました。しかし同時に、筆頭の尾張家、2人の将軍(8代吉宗・14代家茂)を出した紀伊家、そして石高・官位が一等低い代わりに原則として江戸定府(じょうふ)とされた水戸家では、その立場と歴史的な歩みに明確な違いがありました。 連載第4回では、尾張・紀伊・水戸の三家を1記事にまとめ、各家の成立と領国、附家老や分家(御連枝)の仕組み、宗家との緊張と協調の歴史をたどります。
徳川御三家|尾張・紀伊・水戸の成立、領国と将軍家を支えた三つの立場のイメージ

基本情報

氏名・名称徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)(とくがわごさんけ)
主な居城・拠点名古屋城(尾張国)、和歌山城(紀伊国)、水戸城・江戸小石川藩邸(常陸国・武蔵国)
家族・一族尾張徳川家(祖:九男・徳川義直)、紀伊徳川家(祖:十男・徳川頼宣)、水戸徳川家(祖:十一男・徳川頼房)
種類人物 (武将・偉人など)
時代江戸時代
主な地域愛知県、和歌山県、茨城県
関連タグ
#徳川一族#徳川御三家#尾張徳川家#紀伊徳川家#水戸徳川家#名古屋城

この連載の記事一覧(全5回)

※本記事の年表および本文中に記載される歴史上の月日は、当時の旧暦(太陰太陽暦)に基づいています。

はじめに――なぜ家康は晩年の三人の息子に「御三家」を創設させたのか

徳川家康は、三男の徳川秀忠に2代将軍の座を譲った後も、晩年に側室との間に生まれた3人の男子――九男の義直(母はお亀の方・相応院)、十男の頼宣(母はお万の方・養珠院)、十一男の頼房(母はお万の方・養珠院、幼少期はお梶の方・英勝院が養育)――に対して、特別な地位と領国を与えました。これが尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の「徳川御三家(ごさんけ)」です。

前回までの第2回・第3回で見てきたように、家康の年長の息子たち(次男・結城秀康や六男・松平忠輝ら)は旧姓の「松平」を名乗ったのに対し、義直・頼宣・頼房の三家は、将軍宗家と同じ「徳川」の姓を称し、三つ葉葵の正紋を使用することが許されました。家康が晩年にこの三家を特別扱いした背景には、慶長8年(1603年)から慶長12年(1607年)にかけて五男・武田信吉、四男・松平忠吉、次男・結城秀康が相次いで早世し、将軍秀忠の系統にもし万が一のことがあれば徳川政権そのものが揺らぎかねないという強い危機感がありました。

家康は遺言や幕府の基本方針を通じて、「将軍宗家を絶対の主君として立てつつ、宗家に世継ぎが絶えた際には尾張・紀伊から養嗣子を出して将軍家を継がせ、水戸を含めた三家が宗家の藩屏(はんぺい=守護の垣根)となる」という体制を築いたのです。連載第4回では、尾張・紀伊・水戸の三家がそれぞれどのように成立し、どのような役割分担と立場の違いを持ちながら265年間の幕政に関わったのかを解説します。

御三家の成立と地理的配置――東海・南海・北関東の要衝

御三家の領国配置は、江戸幕府の全国防衛構想そのものでした。最初から名古屋・和歌山・水戸に固定されていたわけではなく、関ヶ原の戦い後から元和5年(1619年)までの約20年間をかけて段階的に完成しています。

  1. 尾張徳川家(名古屋藩61万9千5百石)の成立: 慶長5年(1600年)生まれの九男・徳川義直(五郎太丸)は、まず慶長8年(1603年)に甲斐国甲府25万石を与えられました。その後、慶長12年(1607年)に尾張清洲藩主であった兄・松平忠吉が嗣子なく死去したため、義直が尾張清洲へ移封されます。家康は木曽川流域の低湿地にあって水害に弱かった清洲城に代わる新拠点として、慶長15年(1610年)から諸大名を動員した天下普請によって那古野台地に巨大な名古屋城を築城させました。慶長17年(1612年)頃から清洲の城下町・社寺・商人を丸ごと名古屋へ移す「清洲越し」が進められ、美濃・信濃木曽(尾張藩領の木曽山林)を含む61万9千5百石の尾張藩が完成しました。尾張は東海道と中山道が交わる日本の大動脈であり、西国大名の東上を食い止める最前線でした。
  2. 紀伊徳川家(和歌山藩55万5千石)の成立: 慶長7年(1602年)生まれの十男・徳川頼宣(長福丸)は、兄・武田信吉の死去を受けて慶長8年(1603年)に常陸国水戸20万石(のち25万石)へ入りましたが、慶長14年(1609年)には父・家康が隠居城とした駿府城のもとで駿河・遠江50万石を与えられます。そして大坂の陣で豊臣家が滅亡した後の元和5年(1619年)7月、福島正則の改易に伴う西国大名の大再編(浅野長晟の安芸広島転封)によって、頼宣は紀伊国一国と伊勢国松坂・田丸など計55万5千石へ移封され、和歌山城に入りました。紀伊半島と紀淡海峡を押さえる和歌山は、大坂・京都の背後を監視し、瀬戸内海・南海道の海上交通を制圧する戦略拠点でした。
  3. 水戸徳川家(水戸藩35万石)の成立: 慶長8年(1603年)生まれの十一男・徳川頼房(鶴千代)は、慶長11年(1606年)に常陸国下妻10万石を与えられた後、慶長14年(1609年)12月に兄・頼宣の駿府転封に伴って常陸国水戸城25万石へ入封しました(のちに28万石、元禄期には表高35万石となります)。これによって元和5年(1619年)の段階で、尾張・紀伊・水戸の三拠点が確定しました。水戸は仙台の伊達家をはじめとする奥羽の有力外様大名に対する北関東の抑えであり、江戸の北東を守る要衝でした。
調査猫

調査猫の補足

実は家康の存命中や2代秀忠・3代家光の時代には、将軍宗家自身を含めて「尾張・紀伊・水戸」を「御三家」と呼ぶ用法と、2代秀忠の三男・徳川忠長(駿河大納言55万石)を加える見方などが並存していました。寛永9年(1632年)に忠長が改易され、さらに4代家綱・5代綱吉期を経て館林家・甲府家が宗家に吸収されたことで、尾張・紀伊・水戸の3家を「御三家」とする枠組みが制度として完全に定着したのです。

三家の格式・官位・役割の明確な違い

同じ「御三家」であっても、尾張・紀伊・水戸の三家は対等ではなく、石高・極官(昇進できる最高の官位)・参勤交代の義務・将軍継承権において明確な序列と役割の違いがありました。

尾張家・紀伊家の「大納言・将軍継嗣資格」と、水戸家の「中納言・江戸定府」

尾張徳川家(61万9千5百石)と紀伊徳川家(55万5千石)は、官位において従二位・権大納言まで昇進できる家格を持ち、尾張家が御三家筆頭、紀伊家がそれに次ぐ地位を占めました。両家は通常の諸大名と同様に参勤交代を行い、国元の名古屋城・和歌山城と江戸の広大な藩邸(尾張家は市谷上屋敷・戸山下屋敷、紀伊家は麹町・赤坂上屋敷など)を往復しました。そして家康の定めにより、当初「宗家に嗣子なきときに将軍を継ぐ資格」を持っていたのは、原則として尾張家と紀伊家の二家とされていました。

これに対し、水戸徳川家(35万石)は石高が尾張・紀伊の半分余りであり、極官も一等低い従三位・権中納言(死後の贈位や特例を除く)にとどまりました。その代わり、水戸藩主は参勤交代を行わず、原則として常に江戸の小石川上屋敷(現在の小石川後楽園および東京ドーム周辺)に在住する「定府(じょうふ)」の大名と定められていました。国元の水戸城には城代や家老が置かれ、藩主自身が水戸へ帰国するのは就封時や特別な許可を得た場合(天保期の徳川斉昭など)に限られていました。

なぜ水戸家だけが江戸定府とされたのでしょうか。それは、江戸を留守にしがちな尾張・紀伊両藩主に代わって常に将軍の膝元に控え、有事の際には江戸城の守衛や将軍の政治的助言者(後世「天下の副将軍」と俗称された立場)として幕政を内側から支える役割が期待されていたためです。

幕府から派遣された「御附家老(おつきがろう)」と分家「御連枝(ごれんし)」

まだ10代であった義直・頼宣・頼房が巨大な藩を統治するため、家康は自らの股肱の重臣(譜代)を「御附家老(おつきがろう)」として各家に付属させました。

  • 尾張家:犬山城3万5千石の成瀬正成(成瀬家)と、今尾3万石の竹腰正信(竹腰家)
  • 紀伊家:田辺城3万8千石の安藤直次(安藤家)と、新宮城3万5千石の水野重央(水野家)
  • 水戸家:松岡2万5千石の中山信吉(中山家)

これらの附家老は万石以上の知行を持ちながら、幕末の慶応4年(1868年)に独立大名として認められるまでは御三家の陪臣(家老)という位置づけにあり、藩主を補佐すると同時に幕府の目付として藩政を監督する二重の性格を持っていました。

さらに御三家は、それぞれの次男以下の息子に独立した支藩を持たせました。これを「御連枝(ごれんし)」と呼びます。尾張家の御連枝には美濃国の高須松平家(3万石)、紀伊家の御連枝には伊予国の西条松平家(3万石)、水戸家の御連枝には第3回でも触れた讃岐国の高松松平家(12万石)のほか、陸奥国の守山松平家(2万石)、常陸国の常陸府中(石岡)松平家(2万石)・宍戸松平家(1万石)がありました。御三家の本家に嗣子が絶えた際には、この御連枝から養子を迎えて本家の血統を守る仕組みが整えられていたのです。

宗家継承をめぐる尾張と紀伊――8代吉宗の誕生と尾張宗春の対立

御三家最大の使命である「将軍宗家の継承」が現実となったのは、正徳6年(1716年、享保元年)に7代将軍・徳川家継が数え8歳で夭折したときでした。

このとき御三家筆頭の尾張家では、3代綱誠の子・4代吉通やその子・5代五郎太が相次いで早世し、吉通の弟である6代継友が藩主となっていました。一方、紀伊家では初代頼宣の孫(2代光貞の四男)であり、すでに紀州藩主として財政再建の実績を挙げていた5代徳川吉宗が健在でした。家康からの世代数(吉宗は家康の曾孫、尾張継友は玄孫)と統治能力、そして天英院・間部詮房・老中らの支持によって吉宗が8代将軍に迎えられ、紀伊家が初めて将軍を輩出しました(吉宗が去った後の紀伊藩主には、御連枝の伊予西条藩主であった松平頼致[6代徳川宗直]が入りました)。

将軍の座を紀伊家に譲る形となった尾張家では、享保15年(1730年)に継友の弟である7代徳川宗春が藩主となります。宗春は、将軍吉宗が進める享保の改革の緊縮・倹約路線に対し、独自の政治理念を著した『温知政要(おんちせいよう)』を掲げ、名古屋城下での芝居小屋や遊里の営業許可、夜間通行の緩和など、消費と流通を活性化させる開放政策を採りました。また、江戸参勤時にも華やかな装束で耳目を集め、御三家筆頭としての自律性を強く打ち出しました。

しかし、この政策は名古屋城下の急速な賑わいをもたらした反面、尾張藩の財政赤字を深刻化させました。元文4年(1739年)1月、将軍吉宗は尾張藩の附家老・成瀬正太や竹腰正武らとも連携し、宗春に対して「藩政紊乱」を理由に隠居・謹慎(蟄居)を命じます。後任の尾張8代藩主には支藩・高須松平家から徳川宗勝が入り、財政緊縮と藩政の引き締めを図りました。この元文4年の処分は、たとえ御三家筆頭の尾張家であっても、将軍宗家の幕政方針に公然と背けば幕府権力によって藩主を更迭し得ることを示した象徴的な出来事でした。

歴史マニア猫

歴史マニア猫の補足

尾張徳川家は、初代義直が父・家康から受け継いだ膨大な遺品「駿府御分物(すんぷおわけもの)」と、3代将軍家光の長女・千代姫が2代光友に輿入れした際の豪華な婚礼調度(国宝『初音の調度』)を明治以降も散逸させずに守り抜きました。現在、名古屋市の「徳川美術館」と「蓬左文庫」でこれら国宝・重要文化財の数々を実際に見学できるのは、尾張家が御三家筆頭として受け継いだ文化遺産の厚みによるものです。

江戸後期から幕末の御三家――押込養子、水戸学、そして維新の分岐

江戸時代後期になると、御三家と将軍宗家の関係は新たな局面を迎えます。

尾張家では、寛政11年(1799年)に名君と称された9代・徳川宗睦が死去したことで、初代義直以来の男系血統(支藩・高須家の義直系を含む)が途絶えました。すると11代将軍・徳川家斉は、一橋家や自らの実子を次々と尾張家の養子として送り込みます。10代斉朝(一橋家出身)、11代斉温(家斉の十九男)、12代斉荘(家斉の十一男)、13代慶臧(田安家出身)と、実に4代・50年にわたり将軍家・御三卿からの養子(藩内では「押込養子」と反発された)が続きました。この反動として、嘉永2年(1849年)に高須松平家(水戸系・一橋系の血を引く)から14代徳川慶勝が尾張藩主に迎えられると、尾張藩内では将軍家からの養子派(ふいご党)と尾張・高須系を支持する尊王派(金鉄党)の対立が生まれ、のちの幕末における尾張藩の尊王路線(青松葉事件と新政府軍への参加)を決定づけることになります。

一方、紀伊家でも10代・徳川治宝の隠居後、文政7年(1824年)に11代将軍家斉の六男・徳川斉順(清水家を経て紀伊11代藩主)、次いで家斉の二十一男・12代斉彊が藩主となり、将軍家斉との血縁が極めて濃くなりました。その結果、安政5年(1858年)の13代将軍家定の継嗣問題では、斉順の遺児である紀伊13代藩主・徳川慶福が「先代将軍に最も血統が近い従弟」として南紀派に推され、14代将軍・徳川家茂として宗家に入ることになったのです。

そして水戸家では、2代徳川光圀が明暦3年(1657年)に開始した『大日本史』編纂事業を通じて尊王論と歴史研究の気風が育まれ、幕末の9代藩主・徳川斉昭(烈公)の時代に「水戸学」として全国の志士に強い影響を与えました。斉昭は天保12年(1841年)に水戸城三の丸に藩校「弘道館」を開き、海防強化や大砲鋳造などの藩政改革を断行します。さらに弘化4年(1847年)、斉昭の七男・七郎麻呂が御三卿の一橋家を継いで一橋慶喜となり、のちの慶応2年(1866年)に15代将軍・徳川慶喜として宗家を相続しました。当初は将軍継嗣資格を持たないとされた水戸家の血統から、幕府最後の将軍が生まれるという歴史の皮肉な展開を迎えたのです(水戸藩自身は幕末に天狗党と諸生党の凄惨な内部抗争に揺れながら明治維新を迎えました)。

時代背景と関係人物

人物関係・時期影響・補足
徳川義直尾張徳川家初代(1600年〜1650年)家康の九男。清洲から名古屋城へ移り、61万9千5百石の御三家筆頭・尾張藩の基礎と学問(敬公)の伝統を築いた。
徳川頼宣紀伊徳川家初代(1602年〜1671年)家康の十男。水戸・駿府を経て元和5年に和歌山55万5千石へ入封し、大坂と西国を監視する紀伊藩体制を確立した。
徳川頼房水戸徳川家初代(1603年〜1661年)家康の十一男。慶長14年に水戸へ入封し、江戸定府として将軍宗家を江戸で補佐する水戸藩の立場を定めた。
徳川光圀水戸徳川家2代(1628年〜1700年)頼房の三男。江戸小石川藩邸の彰考館で『大日本史』の編纂を開始し、水戸学の源流となる学問的気風を育てた。
徳川吉宗紀伊徳川家5代・のち8代将軍(1684年〜1751年)紀伊2代光貞の四男。紀州藩の財政再建を経て享保元年に御三家から初めて宗家を相続し、8代将軍となった。
徳川宗春尾張徳川家7代(1696年〜1764年)尾張3代綱誠の二十男。規制緩和による独自の藩政を展開したが、元文4年に将軍吉宗より隠居・謹慎を命じられた。
徳川斉昭水戸徳川家9代(1800年〜1860年)藩校・弘道館を創設して藩政改革と海防論を主導。七男・慶喜を一橋家へ送り出し、幕末政局の中心人物となった。
徳川家茂(慶福)紀伊徳川家13代・のち14代将軍(1846年〜1866年)紀伊11代斉順の子(11代将軍家斉の孫)。安政5年に紀伊家から2人目の将軍として宗家に入り、大坂城で陣没した。

年表

年表

※月日は当時の旧暦(太陰太陽暦)を基準に表記

1607年(慶長12年)閏4月〜1610年(慶長15年)

九男・徳川義直の尾張清洲入封と、天下普請による名古屋城築城(尾張徳川家の成立)

兄・松平忠吉の無嗣死去を受けて義直が甲斐甲府から尾張へ移り、慶長15年からの名古屋城築城と「清洲越し」によって尾張藩の基礎が築かれる。

1609年(慶長14年)12月

十男・徳川頼宣が駿府50万石へ、十一男・徳川頼房が常陸水戸25万石へ入封

水戸の頼宣が父・家康の膝元である駿河・遠江50万石へ移り、代わって下妻から末弟・頼房が水戸へ入って水戸徳川家が成立する。

1619年(元和5年)7月

徳川頼宣の紀伊和歌山55万5千石入封により、尾張・紀伊・水戸の三家体制が完成

浅野長晟の安芸広島転封に伴い、頼宣が駿府から紀伊国・伊勢国松坂ほか55万5千石へ移り、大坂と西国を抑える紀伊徳川家が確立する。

1657年(明暦3年)2月

水戸藩2代・徳川光圀が江戸駒込別邸(のち小石川本邸)に史局を開き『大日本史』編纂を開始

江戸定府の大名として藩政と修史事業を主導し、後世の「水戸学」へとつながる学問的伝統を築く。

1716年(享保元年)4月〜8月

紀伊徳川家5代・徳川吉宗が徳川宗家に入り、8代将軍に就任

7代将軍家継の夭折を受け、御三家から初めて将軍宗家を相続。紀伊藩主の後任には一門の伊予西条藩主・松平頼致(6代宗直)が就く。

1730年(享保15年)〜1739年(元文4年)1月

尾張藩7代・徳川宗春の藩政と、将軍吉宗による隠居・謹慎処分

規制緩和による城下繁栄策を採った尾張宗春に対し、幕府は藩財政の悪化や幕政方針との乖離を問題視して隠居・謹慎を命じ、支藩・高須家から8代宗勝が継ぐ。

1799年(寛政11年)〜1849年(嘉永2年)

尾張徳川家の直系断絶と、11代将軍家斉の子・一橋家等からの連続養子(押込養子)

尾張9代宗睦の死後、義直以来の男系が途絶え、10代斉朝・11代斉温・12代斉荘・13代慶臧と将軍家・御三卿からの養子が続き、藩内に「金鉄党」を生む伏線となる。

1841年(天保12年)8月

水戸藩9代・徳川斉昭が藩校「弘道館」を創設

水戸城三の丸に日本最大規模の藩校・弘道館を開設し、文武一致と尊王攘夷論の拠点となるとともに、七男・慶喜を一橋家へ送り出す。

1858年(安政5年)6月〜1868年(慶応4年)

紀伊藩13代・徳川慶福の14代将軍(家茂)就任と、幕末維新における御三家の選択

紀伊家から2人目の将軍・家茂が出る一方、安政の大獄では尾張慶勝・水戸斉昭らが処罰され、戊辰戦争では尾張藩が青松葉事件を経て新政府側へ立つなど三者三様の道を進む。

ゆかりの地

旅猫

旅猫の案内

御三家の拠点を現地で訪ねるなら、名古屋の「名古屋城(本丸御殿)」と「徳川美術館」、和歌山の「和歌山城(天守閣・西之丸庭園)」、水戸の「特別史跡 弘道館」と隣接する水戸城大手門・二の丸展示館を比較しながら巡るのがおすすめです。巨大城郭を構えた尾張・紀伊と、土塁と巨大な藩校・弘道館に特徴がある水戸との城づくりの違いが鮮明に浮かび上がります。
SPOT 1

名古屋城

慶長15年(1610年)より徳川家康が天下普請で築城し、九男・徳川義直を初代とする御三家筆頭・尾張徳川家(61万9千5百石)が明治維新まで17代にわたり居城とした東海道の要衝。

訪れる価値・見どころ

豪華絢爛な障壁画と飾金具を復元した本丸御殿が公開されているほか、[藤堂高虎](/history/articles/todo-takatora)や加藤清正らが築いた巨石石垣、現存重要文化財の西南隅櫓・東南隅櫓・西北隅櫓・表二之門を見学できる(※大天守・小天守は現在閉館中)。

営業: 9:00〜16:30(本丸御殿・西の丸御蔵城宝館への最終入場は16:00、12月29日〜1月1日休園)
料金: 大人500円、名古屋市内高齢者100円、中学生以下無料
駐車場: あり(正門前駐車場・二の丸東駐車場、普通車30分180円)
交通: 名古屋市営地下鉄名城線「名古屋城駅」下車、7番出口より徒歩約5分
SPOT 2

徳川美術館

尾張徳川家初代・徳川義直の遺品「駿府御分物(すんぷおわけもの)」をはじめ、尾張徳川家旧蔵の大名道具・刀剣・茶器・甲冑1万件以上を収蔵・公開する美術館(旧尾張藩大曽根下屋敷跡)。

訪れる価値・見どころ

国宝『源氏物語絵巻』や国宝太刀「銘来国俊」「銘長光」など国宝9件・重要文化財59件を有し、名古屋城本丸御殿の空間を再現した展示室や隣接する名古屋市蓬左文庫とともに尾張家の文化遺産を見学できる。

営業: 10:00〜17:00(最終入館16:30、月曜休館・祝日の場合は翌平日、12月中旬〜年末休館あり)
料金: 一般1,600円、高・大生800円、小・中生500円(土曜日は小・中・高生無料)
駐車場: あり(美術館南側無料駐車場17台、隣接する徳川園有料駐車場も利用可能)
交通: JR中央本線「大曽根駅」南口から徒歩約10分、または基幹バス「徳川園新出来」停留所から徒歩約3分
SPOT 3

和歌山城

元和5年(1619年)に家康の十男・徳川頼宣が55万5千石で入封し、8代将軍吉宗・14代将軍家茂を輩出した紀伊徳川家が居城とした南海道・大坂防衛の要衝。

訪れる価値・見どころ

虎伏山にそびえる連立式天守(再建)や、重要文化財の岡口門、紀州特産の青石(緑泥片岩)を積んだ野面積み・打込接・切込接の石垣、大名庭園の西之丸庭園(紅葉渓庭園)を見学できる。

営業: 天守閣:9:00〜17:30(最終入場17:00、12月29日〜31日休館。和歌山城公園内は常時散策可能)
料金: 天守閣・わかやま歴史館共通券:大人410円、小人(小・中学生)200円(西之丸庭園は無料)
駐車場: あり(和歌山城公園駐車場58台・有料)
交通: JR「和歌山駅」または南海電鉄「和歌山市駅」から和歌山バス「和歌山城前」下車すぐ
SPOT 4

弘道館(特別史跡)

天保12年(1841年)に水戸徳川家9代藩主・徳川斉昭が水戸城三の丸に創設した日本最大規模の藩校。斉昭の七男・七郎麻呂(のちの15代将軍徳川慶喜)も幼少期にここで学んだ。

訪れる価値・見どころ

国の重要文化財である正門・正庁・至善堂が現存し、斉昭が教育理念を示した「弘道館記碑」や、慶喜が慶応4年(1868年)に謹慎生活を送った至善堂御座の間を見学できる。

営業: 2月20日〜9月30日は9:00〜17:00、10月1日〜2月19日は9:00〜16:30(12月29日〜31日休館)
料金: 大人420円、小・中学生210円、満70歳以上210円
駐車場: あり(弘道館駐車場・水戸大手門広場駐車場、無料)
交通: JR常磐線「水戸駅」北口から徒歩約8分

まとめ

尾張・紀伊・水戸の「徳川御三家」は、家康が晩年の3人の息子に託した「将軍宗家の守護と血統の控え」という枠組みから出発し、それぞれの地理的条件と家格に応じて異なる個性を発展させました。61万9千5百石の筆頭として東海道を抑えつつ将軍家との緊張も経験した尾張家、55万5千石で大坂・南海を抑え吉宗と家茂の2人の将軍を宗家へ送り出した紀伊家、そして35万石・江戸定府として将軍の膝元に控えながら『大日本史』と弘道館から幕末の思想と15代慶喜を生み出した水戸家。

しかし、この御三家が領国経営を抱える巨大大名であったがゆえに、8代将軍吉宗は「江戸城内にあって、より宗家に近く、身軽に将軍を補佐・継承できる新しい分家」を必要としました。それが最終回(第5回)で扱う「徳川御三卿(田安・一橋・清水)」です。

関連リンク

関連記事