
徳川家康の孫と、広がる松平家|越前・会津・奥平・高松と松平諸家の系譜

基本情報
| 氏名・名称 | 徳川家康の孫と松平諸家(とくがわいえやすのまごとまつだいらしょけ) |
|---|---|
| 主な居城・拠点 | 福井城、松江城、津山城、会津若松城、高松城、姫路城、川越城、松平郷など |
| 家族・一族 | 越前松平家(忠直・光長・忠昌・直政・直基・直良)、会津松平家(保科正之)、奥平松平家(松平忠明)、高松松平家(松平頼重)、および十八松平諸家 |
| 種類 | 人物 (武将・偉人など) |
| 時代 | 戦国時代 / 江戸時代 |
| 主な地域 | 福島県、島根県、香川県、愛知県、福井県 |
| 関連タグ | #徳川一族#松平家#越前松平家#保科正之#松平直政#松平忠明 |
この連載の記事一覧(全5回)
- 第1回:徳川将軍家|宗家の継承、正室・側室と分家が支えた二百六十五年
- 第2回:徳川家康の子と、その家々|宗家・御三家以外の諸子と娘たちの婚姻網
- 第3回:徳川家康の孫と、広がる松平家|越前・会津・奥平・高松と松平諸家の系譜(現在の記事)
- 第4回:公開をお待ちください
- 第5回:公開をお待ちください
※本記事の年表および本文中に記載される歴史上の月日は、当時の旧暦(太陰太陽暦)に基づいています。
はじめに――なぜ江戸時代にはこれほど多くの「松平家」があったのか
江戸時代の藩と大名を調べるとき、多くの人が戸惑うのが「松平(まつだいら)」を名乗る大名家の多さです。越前福井の松平家、出雲松江の松平家、陸奥会津の松平家、讃岐高松の松平家、さらには桑名・忍・川越・明石・島原・吉田(豊橋)・西尾・上田・尼崎など、全国に数十もの松平藩が存在しました。しかも、加賀の前田家や薩摩の島津家、仙台の伊達家といった外様の大大名までが、幕府の公文書では「松平加賀守」「松平薩摩守」「松平陸奥守」と記されていました。
なぜこれほど多くの「松平家」が生まれたのでしょうか。その鍵を握るのが、まず「家康の血縁につながる松平家」と「それ以外の松平家」を明確に区別することであり、そして徳川家康の「孫の世代(第3世代)」において進んだ親藩(御家門)の大規模な分立を理解することです。
連載第3回では、まず混同されやすい「松平家」の3つの成り立ちを整理したうえで、前回(第2回)で扱った家康の子たちから生まれた「孫の世代」が、改易や転封の波をくぐり抜けながらどのように全国へ広がっていったのかをたどります。
混同しないための基礎整理――「松平家」の三つの分類
江戸時代に「松平」を称した大名家は、その成り立ちと幕府内の家格によって、大きく次の3つに分類されます。
1. 家康の血縁につながる「親藩(御家門)の松平家」
家康が永禄9年(1566年)に朝廷から勅許を得て「徳川」へ改姓した際、「徳川」の姓は原則として将軍宗家(およびのちに定められた御三家・御三卿・館林家・甲府家などごく一部の直系)のみに限定されました。そのため、家康の次男・結城秀康の系統(越前松平家)や、2代将軍秀忠の四男・保科正之の系統(会津松平家)、御三家の次男以下の分家(高松・守山・西条・高須などの御連枝)、家康の娘・亀姫の系統(奥平松平家)など、家康の血を引く一門大名(親藩・御家門)は、徳川ではなく旧姓の「松平」を名乗ったのです。本稿の中心テーマはこのグループです。
2. 家康以前に分かれた「十八松平・譜代大名の松平家」
三河国加茂郡の松平郷に起こった松平氏は、3代信光や4代親忠、5代長親らの時代に、三河各地へ多くの庶流(支族)を分出しました。竹谷(たけのや)・形原(かたはら)・大給(おぎゅう)・御油(五井)・深溝(ふこうず)・能見(のみ)・丸根・牧内・長沢・桜井・滝脇・福釜・東条・藤井などの諸家で、後世これらを総称して「十八松平(じゅうはちまつだいら)」と呼びます。
さらに、家康の異父弟(母・於大の方が久松俊勝に再嫁して生んだ子)である久松松平家(桑名・松山・今治など)のように、家康から松平姓を与えられた準一門・譜代の大名もありました。これらの「十八松平」や譜代松平家は、家康の祖先や母系につながる同族ではありますが、家康自身の男系子孫(親藩・御家門)ではなく、幕政の実務(老中・京都所司代・大坂城代など)を担う「譜代大名」として位置づけられていました。
3. 外様大名・有力譜代への「称号としての松平姓賜与」
家康・秀忠・家光は、豊臣政権下で五大老・中老などを務めた有力外様大名や婚姻関係を結んだ大名に対し、徳川一門に準じる栄誉として「松平の名字」と将軍の偏諱(名前の1文字)を与えました。前田家(加賀)・島津家(薩摩)・伊達家(仙台)・毛利家(長州)・池田家(岡山・鳥取)・浅野家(広島)・黒田家(福岡)・鍋島家(佐賀)・細川家(熊本)・蜂須賀家(徳島)・山内家(土佐)などがこれにあたります。彼らは幕府の公式文書では「松平」を称しましたが、これはあくまで儀礼上の称号(賜姓)であり、実態は外様大名でした。

調査猫の補足
親藩(御家門)の松平家と、十八松平などの譜代松平家は、江戸城での詰席(控えの間)や役職の就き方でも区別されていました。越前松平家や会津・高松などの御家門は主に「大廊下」や「溜間(たまりのま)」に詰めて将軍の後見・諮問にあたる一方、大給松平家・藤井松平家・桜井松平家などの十八松平は「帝鑑間(ていかんのま)」や「雁間(かりのま)」に詰め、老中や若年寄として幕府の行政実務を直接動かしたのです。
越前松平家の試練と分立――忠直の配流から福井・高田(津山)・松江・前橋へ
家康の孫世代のなかで最も劇的な展開をたどったのが、前回見た次男・結城秀康の遺児たちによる越前松平家(越前家)です。慶長12年(1607年)に父・秀康が34歳で急逝したとき、残された6人の男子はいずれもまだ幼少・少年でした。
嫡男・松平忠直の改易と、その子・光長(高田→津山松平家)
数え13歳で越前北庄68万石を継いだ長男・松平忠直は、慶長16年(1611年)に叔父である2代将軍秀忠の三女・勝姫(高田殿)を正室に迎え、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では越前兵を率いて真田信繁(幸村)隊を打ち破り、大坂城一番乗りの大功を立てました。
しかし忠直は、戦後の恩賞が従三位参議への昇進や茶器「初花肩衝」の下賜にとどまり領地の加増がなかったことに強い不満を抱いたとされ、次第に参勤の遅延や家臣への処罰など幕府との摩擦を深めていきます。そして元和9年(1623年)2月、前年の六男・松平忠輝に続き、秀忠は忠直に対しても隠居と豊後国萩原(現在の別府・大分周辺)への配流を命じました。
このとき幕府は越前松平家を断絶させることはせず、忠直と勝姫(秀忠の娘)の間に生まれた嫡男・仙千代(松平光長、家康の曾孫・秀忠の外孫)に越後国高田26万石を与えて別家を立てさせました。その後、高田藩の松平光長家は、延宝7年(1679年)から天和元年(1681年)にかけて藩政の主導権と継嗣をめぐる大内紛「越後騒動」を起こし、5代将軍綱吉の親裁によって一度は改易・配流となります。しかし光長が赦免された後の元禄11年(1698年)、養嗣子の松平長矩(宣富)に美作国津山10万石が与えられ、越前松平家の嫡流としての格式を保つ津山松平家として再興されました。
次男・松平忠昌による福井藩の継承(福井松平家)
一方、忠直が配流された後の越前本領は、秀康の次男で越後高田25万石を領していた松平忠昌が元和9年(1623年)に呼び戻され、北庄50万石(のち52万5千石)を相続しました。忠昌は翌寛永元年(1624年)に「北庄(きたのしょう)」の城下名を「福井」へと改め、これが現在の福井県・福井市の名称の由来となります。福井松平家はその後、貞享3年(1686年)の綱昌改易・吉品再興による半知(25万石、のち32万石)などの試練を経ながらも、幕末の名君・松平春嶽(慶永、田安家から養子)に至るまで越前福井藩主として存続しました。
三男・直政(松江)、五男・直基(前橋/川越)、六男・直良(明石)の分立
さらに、秀康の他の息子たちもそれぞれ独立した大名家(越前松平家の分家)を創設しました。
- 三男・松平直政(出雲松江松平家):わずか14歳で出陣した大坂夏の陣・真田丸の戦いで奮戦し、寛永元年(1624年)に越前大野5万石、寛永10年(1633年)に信濃松本7万石を経て、寛永15年(1638年)に京極忠高の死去に伴って山陰の要衝・出雲国松江18万6千石(加えて隠岐国1万8千石を預かり)へ入封しました。直政が開いた松江松平家は、7代治郷(不昧公)の茶道文化などでも知られ、転封されることなく明治維新まで松江城を守り続けました。
- 五男・松平直基(結城松平家・前橋/川越藩):祖父・結城晴朝の養子となって結城家の祭祀と家号を受け継ぎ、越前勝山・大野・出羽山形を経て播磨国姫路15万石に至りました。この系統は江戸時代を通じて越後村上・肥前唐津・播磨姫路・上野前橋・武蔵川越と頻繁に国替えを繰り返しながらも、越前松平家の有力支流として15万石〜17万石を維持しました。
- 六男・松平直良(明石松平家):越前木本・勝山・大野を経て、その子・直明の天和2年(1682年)に播磨国明石6万石(のち8万石・10万石格)へ入封し、明石海峡を抑える親藩として明治まで続きました。
2代秀忠の子どもたち――忠長の改易、保科正之の会津松平家、そして娘たち
家康の三男である2代将軍・秀忠の子どもたちもまた、すべて「家康の孫」にあたります。3代将軍・家光以外の男子と娘たちの歩みは、明暗が大きく分かれました。
駿河大納言・徳川忠長の改易と自刃
秀忠と正室・崇源院(江)の間に生まれた次男(実質的な次男、家光の同母弟)の徳川忠長は、寛永元年(1624年)に駿河・遠江・甲斐(さらに信濃小諸領)をあわせて55万石を与えられ、祖父・家康の隠居城であった駿府城に入り、従二位権大納言に叙任されたため「駿河大納言」と呼ばれました。しかし、兄・3代将軍家光との確執や不行跡を問われて寛永8年(1631年)に甲斐国谷村へ蟄居を命じられ、寛永9年(1632年)の父・秀忠の死去後に改易・上野国高崎(安藤重長預かり)へ配流された末、翌寛永10年(1633年)12月に数え28歳で自刃し、その家は一代で絶えました。
四男・保科正之と会津松平家の成立
忠長と対照的に、宗家を生涯支え抜く親藩を築いたのが、秀忠が側室・お静の方(浄光院)との間にもうけた四男・保科正之(幸松丸、1611年〜1672年)です。正室・崇源院(江)への配慮から存在を秘匿された幸松丸は、武田信玄の次男・仁科盛信の姉(見性院)らに庇護されたのち、旧武田家臣で信濃国高遠3万石の城主・保科正光の養嗣子となって「保科正之」と名乗りました。
父・秀忠の死後、異母兄である3代将軍・家光は実直な正之を深く信頼し、寛永13年(1636年)に出羽国山形20万石へ抜擢したのに続き、寛永20年(1643年)には加藤明成改易後の陸奥国会津23万石(会津若松城)へ入封させました。慶安4年(1651年)に家光が臨終を迎えると、正之は枕頭に召されて幼い4代将軍・家綱の後見を託され、約20年にわたり幕政の中枢を主導して殉死の禁止や玉川上水の整備、明暦の大火後の江戸復興などを成し遂げます。
正之は養家である保科家への恩義から生前は松平への改姓を固辞し続け、寛文8年(1668年)に定めた『会津家訓十五箇条』の冒頭に「大君の義、一心大切に忠勤を存ずべし。列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」と記して、会津藩が将軍宗家のための藩屏であることを家訓として刻みました。正之の死後、3代藩主・正容(まさかた)の元禄9年(1696年)に至り、5代将軍綱吉から正式に「松平」の名字と葵紋の永代使用が許され、ここに会津松平家が成立したのです。

歴史マニア猫の補足
会津藩祖・保科正之が定めた『会津家訓十五箇条』は、その後200年にわたり毎年藩主と家臣の前で朗読されました。幕末の文久2年(1862年)、9代藩主・松平容保(かたもり)が周囲の反対を押し切って困難な京都守護職を引き受けた際にも、この家訓第一条の「将軍家への無二の忠勤」が最大の行動原理となったことが知られています。
秀忠の娘たち(家康の孫娘)の婚姻
秀忠と崇源院(江)の間に生まれた5人の娘たちも、幕藩体制の確立期に極めて重要な婚姻を結んでいます。長女・千姫(天樹院)は豊臣秀頼に嫁ぎ、大坂城落城後に救出されて姫路新田10万石の本多忠刻に再嫁しました。次女・珠姫(天徳院)はわずか3歳で加賀藩主・前田利常に輿入れして加賀前田家との融和をもたらし、三女・勝姫(高田殿)は越前の松平忠直へ、四女・初姫(興安院)は若狭小浜(のち出雲松江)の京極忠高へ嫁ぎました。そして五女・和子(東福門院)は元和6年(1620年)に後水尾天皇に入内して中宮となり、その所生である明正天皇が即位したことで、徳川将軍家は天皇の外戚という地位まで手にしました。
娘・御三家から出た孫世代の松平家――松平忠明(奥平松平家)と松平頼重(高松松平家)
さらに、家康の娘や御三家からも、重要な「孫世代の松平家」が生まれています。
- 松平忠明(奥平松平家、1583年〜1644年):家康の長女・亀姫と奥平信昌の間に生まれた四男です。家康は外孫である忠明を自らの養子として松平姓を与え、上野国小幡・美濃国加納・伊勢国亀山を経て、元和元年(1615年)の大坂夏の陣後には、戦火で荒廃した大坂城主(10万石)に抜擢しました。忠明は道頓堀の開削支援や市街地の整理、寺院の再配置など近世大坂の都市復興を成し遂げた後、元和5年(1619年)に大坂が幕府直轄地(大坂城代制)となると大和国郡山12万石、さらに寛永16年(1639年)には西国の抑えである播磨国姫路18万石へと栄転しました。この奥平松平家は、のちに武蔵国忍(おし)10万石や伊勢国桑名10万石へ移り、幕末まで有力親藩として存続します。
- 松平頼重(高松松平家、1622年〜1695年):家康の十一男・水戸藩祖徳川頼房の長男(家康の孫)であり、水戸光圀(徳川光圀)の同母兄にあたります。父・頼房が三男の光圀を水戸本家の世子に定めたため、長男の頼重は別家を立てて寛永16年(1639年)に常陸国下館5万石、次いで寛永19年(1642年)に生駒氏改易後の讃岐国高松12万石へ入封しました。頼重は弟・光圀の恩義に報いるため、光圀の長男・頼常を自らの養嗣子として高松藩2代藩主に迎え、逆に自らの次男・綱條(つなえだ)を光圀の養嗣子として水戸徳川家3代藩主に送り出しました。これにより、高松松平家は御三家・水戸家の筆頭支藩(御連枝)であると同時に、水戸本家の血統を実質的に継承させる重要な役割を担ったのです。
時代背景と関係人物
| 人物 | 関係・時期 | 影響・補足 |
|---|---|---|
| 松平忠直 | 越前北庄藩2代藩主(1595年〜1650年) | 結城秀康の長男。大坂夏の陣で武功を挙げたが、元和9年に幕府から隠居・豊後配流を命じられた。 |
| 松平忠昌 | 越前福井藩主(1597年〜1645年) | 結城秀康の次男。兄・忠直の配流後に越前本領を継いで「北庄」を「福井」と改称し、福井松平家の系統を確立した。 |
| 松平直政 | 出雲松江藩初代藩主(1601年〜1666年) | 結城秀康の三男。大坂夏の陣での初陣を経て、寛永15年に出雲松江18万6千石に入封し、松江松平家の祖となった。 |
| 松平光長 | 越後高田藩主(1615年〜1707年) | 松平忠直の長男(母は秀忠の娘・勝姫)。高田26万石を領したが越後騒動で改易され、のち養嗣子が美作津山10万石で再興した。 |
| 保科正之 | 陸奥会津藩初代藩主(1611年〜1672年) | 2代将軍秀忠の四男。高遠保科家を継いで会津23万石に入り、4代将軍家綱を補佐して『会津家訓十五箇条』を定めた。 |
| 松平忠明 | 大坂城主・大和郡山藩主・播磨姫路藩主(1583年〜1644年) | 家康の長女・亀姫と奥平信昌の四男。家康の養子となり、大坂の陣後の大坂復興を担って奥平松平家の祖となった。 |
| 松平頼重 | 讃岐高松藩初代藩主(1622年〜1695年) | 水戸徳川頼房の長男(徳川光圀の同母兄)。讃岐高松12万石に入封し、弟・光圀との間で互いの実子を養嗣子として交換した。 |
| 東福門院(徳川和子) | 後水尾天皇中宮(1607年〜1678年) | 2代将軍秀忠の五女(家康の孫娘)。元和6年に入内して明正天皇を生み、朝幕関係の安定に大きな役割を果たした。 |
年表
年表
※月日は当時の旧暦(太陰太陽暦)を基準に表記
結城秀康の死去に伴い、嫡男・松平忠直が越前北庄68万石を相続
数え13歳で越前松平家2代となり、慶長16年(1611年)には2代将軍秀忠の娘・勝姫(高田殿)を正室に迎える。
大坂夏の陣での越前勢の戦功と、家康の外孫・松平忠明の大坂城主(10万石)就任
松平忠直・直政兄弟が大坂夏の陣で奮戦。戦後、家康の長女・亀姫の四男である松平忠明が大坂城主に任じられ、市街の復興にあたる。
松平忠直の豊後配流と、越前松平家の分立(高田藩・光長、福井藩・忠昌)
幕府より隠居・豊後国萩原への配流を命じられた忠直に代わり、嫡男・光長が越後高田26万石へ移り、弟・松平忠昌が越前北庄(福井と改称)50万石を継ぐ。
2代将軍秀忠の三男・徳川忠長(駿河大納言)の蟄居・改易と高崎での自刃
駿府55万石を領した3代将軍家光の同母弟・忠長が、甲斐谷村での蟄居を経て改易され、上野国高崎にて数え28歳で自刃する。
結城秀康の三男・松平直政が出雲国松江18万6千石に入封(松江松平家の成立)
越前大野・信濃松本を経て山陰の要衝・松江城へ入り、以後明治維新まで10代続く松江藩松平家の礎を築く。
水戸徳川頼房の長男・松平頼重が讃岐国高松12万石に入封(高松松平家の成立)
常陸下館5万石から瀬戸内海の要衝・高松城へ移り、四国における徳川一門の筆頭拠点となる。
2代将軍秀忠の四男・保科正之が陸奥国会津23万石に入封(会津松平家の成立)
信濃高遠3万石・出羽山形20万石を経て奥羽の抑えである会津若松城へ入り、のち4代将軍家綱の補佐役として幕政を主導する。
保科正之が「会津家訓十五箇条」を定め、将軍宗家への絶対忠誠を明文化
第一条に「大君の義、一心大切に忠勤を存ずべし」と掲げ、会津藩の存在意義が将軍宗家の守護にあることを藩是として定める。
越後騒動による高田藩・松平光長の改易と、美作国津山10万石での再興(津山松平家)
家中の御家騒動(越後騒動)を5代将軍綱吉が親裁して光長を改易・伊予松山配流とするが、のち赦免され養嗣子・長矩(宣富)が津山10万石を与えられて家名を再興する。
ゆかりの地

旅猫の案内
会津若松城(鶴ヶ城)
2代将軍秀忠の四男(家康の孫)・保科正之が寛永20年(1643年)に23万石で入封し、3代正容の元禄9年(1696年)に松平姓と葵紋の永代使用を許されて以後、幕末まで会津松平家が居城とした奥羽の要衝。
訪れる価値・見どころ
赤瓦の五層天守や鉄門・南走長屋・干飯櫓が復元されており、蒲生・上杉・加藤期から保科・会津松平家へと続く石垣と城郭構造を見学できる。
土津神社(保科正之公墓所)
寛文12年(1672年)に死去した会津藩祖・保科正之の遺言により、磐梯山麓の見祢山に神式(卜部神道・吉川神道)で葬られた墓所と、正之の神霊「土津霊神」を祀る神社。
訪れる価値・見どころ
日本最大級の石碑である「土津霊神碑」や社殿があり、裏山の参道を約500メートル登った奥之院には八角形の石柵に囲まれた正之の墳墓(国指定史跡「会津藩主松平家墓所」)が残る。
松江城
家康の次男・結城秀康の三男(家康の孫)である松平直政が寛永15年(1638年)に信濃松本から18万6千石で入封し、以後明治まで出雲松江松平家10代の居城となった城。
訪れる価値・見どころ
全国に12城しか現存しない天守の一つ(国宝)がそびえ、城内の二の丸には初代藩主・松平直政や徳川家康を祀る「松江神社」が鎮座する。
高松城跡(玉藻公園)
水戸藩祖・徳川頼房の長男(家康の孫)である松平頼重が寛永19年(1642年)に12万石で入封し、四国における徳川一門の拠点として整備・改修を進めた海城。
訪れる価値・見どころ
瀬戸内海の海水を引き込んだ三重の水堀や、重要文化財の月見櫓・水手御門・渡櫓・艮櫓が現存し、松平頼重以来の藩主別邸であった披雲閣(重要文化財)も公開されている。
松平郷
室町時代に松平親氏が松平氏を起こした発祥の地であり、徳川宗家・親藩松平家だけでなく、三河各地へ分かれた「十八松平(譜代松平諸家)」すべての源流となった里。
訪れる価値・見どころ
松平氏館跡に建つ松平東照宮(旧高月院と並び水堀・石垣が残る)や松平郷館、歴代松平宗家の墓所がある高月院を巡ることができる。
まとめ
家康の子どもたち(第2世代)の多くが関ヶ原・大坂の陣前後に早世や改易を経験したのに対し、その次の「家康の孫の世代(第3世代)」は、幕藩体制の安定期に合わせて全国の戦略的要衝へと根を下ろしていきました。北陸の福井、山陰の松江、山陽・美作の津山や播磨の姫路・明石、関東の前橋・川越・忍、東北の会津、四国の高松と、これら孫世代が開いた「親藩(御家門)の松平家」は、三河以来の「十八松平(譜代大名)」とともに徳川幕府の全国支配を地理的にも制度的にも支える柱となったのです。
次回の第4回では、これらの松平諸家の上に立ち、将軍宗家に次ぐ別格の地位と「徳川」の姓を許された3つの家――尾張・紀伊・水戸の「徳川御三家」の成立と役割の違いを詳しく見ていきます。


