
徳川家康の子と、その家々|宗家・御三家以外の諸子と娘たちの婚姻網

基本情報
| 氏名・名称 | 徳川家康の子と諸家(とくがわいえやすのことしょけ) |
|---|---|
| 主な居城・拠点 | 岡崎城・二俣城、北庄城(福井城)、清洲城、水戸城、高田城、姫路城など |
| 家族・一族 | 父:徳川家康。男子:松平信康、結城秀康、松平忠吉、武田信吉、松平忠輝、松平仙千代、松平松千代(秀忠・御三家を除く)。女子:亀姫、督姫、振姫、松姫、市姫 |
| 種類 | 人物 (武将・偉人など) |
| 時代 | 戦国時代 / 安土桃山時代 / 江戸時代 |
| 主な地域 | 静岡県、福井県、愛知県、新潟県、兵庫県 |
| 関連タグ | #徳川一族#松平信康#結城秀康#松平忠吉#松平忠輝#越前松平家 |
この連載の記事一覧(全5回)
- 第1回:徳川将軍家|宗家の継承、正室・側室と分家が支えた二百六十五年
- 第2回:徳川家康の子と、その家々|宗家・御三家以外の諸子と娘たちの婚姻網(現在の記事)
- 第3回:公開をお待ちください
- 第4回:公開をお待ちください
- 第5回:公開をお待ちください
※本記事の年表および本文中に記載される歴史上の月日は、当時の旧暦(太陰太陽暦)に基づいています。
はじめに――将軍宗家と御三家の陰にあった「家康の子どもたち」
徳川家康は16歳で正室・築山殿との間に長男・信康をもうけてから、60代で十一男・頼房や五女・市姫をもうけるまで、半世紀近くにわたって多くの子女を授かりました。通史のなかで注目されやすいのは、2代将軍となった三男・秀忠と、尾張・紀伊・水戸の御三家を創設した九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房ですが、この4人は家康の11人の男子のうちの一部にすぎません。
家康が三河・遠江の一大名から関東移封、そして関ヶ原の戦いを経て天下の覇権を握るまでの過程では、むしろ年長の息子たち(信康・秀康・忠吉・信吉・忠輝)と、有力大名へ嫁いだ娘たち(亀姫・督姫・振姫)が最前線で政治的・軍事的役割を担っていました。
連載第2回となる本稿では、第1回の将軍宗家、第4回の御三家を除く「家康の子どもたち(第2世代)」を取り上げ、なぜ彼ら・彼女らがそれぞれの家や土地へ配され、どの家が存続し、どの家が断絶・改易に至ったのかを整理します(※なお、彼らの子どもたちである「家康の孫世代」の分立と展開については、重複を避けるため次回の第3回で詳しく扱います)。
嫡男・松平信康――岡崎城主としての立場と天正7年の悲劇
家康の最初の男子である松平信康(徳川信康、幼名・竹千代)は、永禄2年(1559年)に駿府で正室・築山殿(関口親永の娘)との間に生まれました。桶狭間の戦い後の人質交換によって母とともに岡崎へ迎えられた信康は、永禄10年(1567年)に織田信長の娘・徳姫(五徳)を正室に迎え、元亀元年(1570年)に父・家康が本拠を遠江の浜松城へ移すと、松平宗家の本城である三河国・岡崎城を任されました。
当時の徳川領国は、遠江の浜松城に拠って武田信玄・武田勝頼と最前線で対峙する家康と、三河の岡崎城にあって譜代の本領と岡崎衆を統率する若き嫡男・信康という二元的な構造をとっていました。信康は天正3年(1575年)の長篠の戦い後の遠江・駿河方面の軍事行動でも初陣・出陣を重ね、次期当主としての地位を固めつつありました。
しかし天正7年(1579年)8月、信康は突如として岡崎城を追われ、大浜から遠江の堀江城、さらに二俣城へと移された末、同年9月15日に二俣城で自刃しました(母・築山殿は同年8月29日に佐鳴湖畔の富永で殺害)。江戸時代に成立した『三河物語』や『松平記』などの軍記・記録類では、徳姫が信康と築山殿の武田方への内通や行状を記した十二か条の訴状を父・信長に送り、信長が酒井忠次らに詰問して切腹を求めたと伝えられています。一方で近年の歴史研究では、武田氏との戦争が長期化するなかで浜松の家康・遠江衆と岡崎の信康・三河岡崎衆との間に領国運営や路線をめぐる深刻な対立が生じていた可能性も指摘されており、信長の一方的な命令だけでなく徳川家中内部の政治的矛盾が背景にあったとする見解も有力です。
信康には男子がいなかったためその直系は途絶えましたが、徳姫との間に生まれた2人の娘(登久姫・熊姫)は家康の手元で養育され、のちに譜代の重臣である小笠原秀政、本多忠政(本多忠勝の嫡男)へそれぞれ嫁いで親藩・譜代を結ぶ重要な血脈となりました。

調査猫の補足
信康事件については、長らく「織田信長の威圧に家康が涙をのんで従った」という構図で語られてきましたが、当時の一次史料は極めて限られており、十二か条の訴状の細部も後世の記録によるものです。現在では伝承と確認できる事実(天正7年8月の岡崎退去・築山殿殺害・9月の二俣城自刃)を区別して慎重に検討されています。
次男・結城秀康と越前松平家の成立
信康の自刃後、本来であれば次男である於義丸(おぎまる、のちの結城秀康)が後継候補となるはずでした。天正2年(1574年)に生まれた秀康は、母が正室・築山殿の侍女であったお万の方(長勝院、永見氏)であり、双子として生まれたことなどから当初は家康に実子として対面を許されず、重臣・本多作左衛門重次らに養育された後、3歳のときに兄・信康のとりなしで家康と対面したと伝えられています。
秀康の運命を大きく変えたのは、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでした。家康と羽柴(豊臣)秀吉の間で講和が結ばれた際、秀康は実質的な人質(証人)兼養子として大坂の秀吉のもとへ送られ、「羽柴秀康」として豊臣一門に列せられたのです。これによって徳川家の後継者の地位は、浜松に残った同年の異母弟・秀忠(天正7年生まれ、母は西郷局)へと確定していきました。
その後、秀吉に実子・鶴松が誕生したこともあって、天正18年(1590年)の小田原合戦後、秀康は関東の名族・下総結城氏の当主である結城晴朝の養子となり、結城家10万1千石を継いで「結城秀康」と名乗ります。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、宇都宮に留まって会津の上杉景勝を牽制する重責を果たし、戦後の慶長6年(1601年)には越前国北庄(のちの福井)68万石という、徳川一門最大の大封を与えられました。
越前国は、加賀・能登・越中を領する前田家への備えであると同時に、北陸道から近江・京都へと通じる戦略上の最重要拠点でした。秀康は北庄城(福井城)と城下町の大規模な建設に着手し、慶長9年(1604年)には松平姓への復姓を許されましたが、翌慶長10年(1605年)に弟・秀忠が2代将軍となったわずか2年後の慶長12年(1607年)閏4月、北庄城にて数え34歳で病没しました。秀康が築いた越前松平家は、のちに多くの分家を生み出す御家門筆頭の家系となります(秀康の息子たちによる分立は第3回で詳述します)。
関ヶ原前後の東国配置と早世――松平忠吉・武田信吉・松平仙千代・松平松千代
天正18年(1590年)に関東へ移封された家康は、秀忠・秀康に続く幼い息子たちに、三河以来の絶えていた松平支族の名跡や、旧族の名跡を継がせて関東各地の城へ配置する政策をとりました。
- 四男・松平忠吉(1580年〜1607年):母は側室・お愛の方(西郷局)で、2代将軍秀忠の同母弟にあたります。当初は東条松平家の名跡を継ぎ、関東入封時に下総国小美川1万石、文禄元年(1592年)に武蔵国忍(おし)10万石を与えられました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、岳父・井伊直政とともに東軍の先陣を切って島津義弘隊と激戦を交え、自らも負傷する武功を挙げます。戦後、東海道の要衝である尾張国清洲52万石へ大幅に加増転封されましたが、兄・秀康が没する1か月前の慶長12年(1607年)3月、江戸の芝浦屋敷で数え28歳にて病没しました。男子がいなかったため忠吉の東条松平家は断絶し、その旧領・清洲には九男の徳川義直が入ることになります。
- 五男・武田信吉(1583年〜1603年):母は武田信玄の娘・お都摩の方(下山殿、秋山氏)です。天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、家康は旧武田家臣団を懐柔・編成するため、信玄の血を引くこの五男にまず穴山武田氏(穴山梅雪)の名跡を継がせ、次いで武田氏そのものの名跡を継がせて「武田万千代(武田信吉)」と名乗らせました。下総国小金3万石、下総国佐倉10万石を経て、関ヶ原後の慶長7年(1602年)には佐竹氏が秋田へ転封された後の常陸国水戸15万石(25万石とも)へ入封しましたが、生来病弱であり、翌慶長8年(1603年)9月に数え21歳で死去し、無嗣絶家となりました。
- 七男・松平仙千代(1595年〜1600年)と八男・松平松千代(1594年〜1599年):ともに母は側室・お亀の方(相応院、九男・徳川義直の母)です。仙千代は重臣・平岩親吉の養嗣子となり、松千代は名門・長沢松平家の名跡を継いで武蔵国深谷1万石を与えられましたが、いずれも数え6歳前後で夭折しました。
このように、関ヶ原合戦直後に越前北庄(秀康)・尾張清洲(忠吉)・常陸水戸(信吉)という最重要拠点を固めた3人の息子が、慶長8年から慶長12年までのわずか4年間に相次いで世を去ったことは、家康晩年の親藩配置を大きく再編させる契機となりました。
六男・松平忠輝――越後高田の巨城と元和2年の改易
早世した松平松千代に代わって長沢松平家の名跡を継いだのが、文禄元年(1592年)生まれの六男・松平忠輝(辰千代、母は茶阿局)です。忠輝は慶長7年(1602年)に下総国佐倉5万石、翌慶長8年(1603年)に信濃国川中島12万石(のち18万石)を与えられ、慶長11年(1606年)には奥州の有力外様大名・伊達政宗の長女である五郎八姫(いろはひめ)を正室に迎えました。
慶長15年(1610年)、越後国福島城主・堀忠俊が家中の内紛(越後福嶋騒動)によって改易されると、家康は忠輝に越後一国(信濃川中島領とあわせて45万石、のち60万石とも75万石とも称される)を与えました。そして慶長19年(1614年)には、舅の伊達政宗をはじめ上杉景勝・前田利常・真田信之ら北国・東国の諸大名を動員した「天下普請」によって、関川流域の平野部に広大な高田城を築城させました。
しかし、忠輝と父・家康、兄・2代将軍秀忠との関係は急速に悪化していきます。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では江戸城留守居を命じられ、翌慶長20年(1615年、元和元年)の大坂夏の陣では大和路方面の総大将に任じられながら、進軍途上の近江国守山で将軍秀忠直属の旗本(長坂信時ら)が自軍の列を横切ったとして家臣がこれを斬殺する事件を起こし、さらに道明寺・大坂城の戦闘にも事実上間に合わない結果となりました。
家康は忠輝の対面を許さぬまま元和2年(1616年)4月に駿府で死去し、その3か月後の同年7月、将軍秀忠は忠輝に改易を言い渡しました。忠輝は伊勢国朝熊(あさま)、次いで飛騨国高山、寛永3年(1626年)からは信濃国諏訪(高島城)へと配流され、4代家綱・5代綱吉の時代まで実に67年間にわたる配流生活を送った末、天和3年(1683年)に数え92歳で没しました。

歴史マニア猫の補足
松平忠輝が家康・秀忠から厳しく処断された背景には、単なる個人の気性や軍律違反だけでなく、東北の雄・伊達政宗の娘婿として越後・信濃に巨大な領国を持ち、スペイン派遣使節(支倉常長ら)や宣教師とも関わりのあった大久保長安を附家老としていた点など、幕府の集権体制にとって看過できない政治的リスクがあったと考えられています。
家康の娘たち――同盟と戦後秩序を結んだ政略婚姻と再嫁
男子による親藩配置と並んで、家康の政治戦略を支えたのが娘たちの婚姻でした。家康の娘たちは、戦国期の同盟形成から関ヶ原前後の大名懐柔に至るまで、情勢の変化に応じて複数の有力大名家へ嫁ぎ、あるいは死別後に再嫁しています。
- 長女・亀姫(加納御前、1560年〜1625年):母は正室・築山殿で、松平信康の同母妹です。天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立ち、武田方から徳川方へ帰属して長篠城を守り抜いた奥三河の国衆・奥平信昌に天正4年(1576年)に嫁ぎました。亀姫は4人の男子(家昌・家治・忠政・松平忠明)を生み、関ヶ原後に信昌が美濃国加納10万石を与えられると「加納御前」と呼ばれ、宇都宮藩や加納藩、そして四男・忠明(奥平松平家)の後見として重きをなしました。
- 次女・督姫(良正院、1565年〜1615年):母は側室・西郡局(鵜殿氏)です。天正10年(1582年)の天正壬午の乱の講和条件として、相模国の北条氏政の嫡男・北条氏直に嫁ぎ、徳川・北条同盟の要となりました。天正18年(1590年)の小田原合戦で北条氏が敗れ、翌天正19年(1591年)に夫・氏直が高野山・大坂で病没すると家康のもとへ戻りますが、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の仲介によって三河吉田城主・池田輝政に再嫁します。督姫は輝政との間に5男2女(岡山藩主・池田忠継、鳥取藩主を経て岡山藩主となった池田忠雄ら)を生み、関ヶ原後に播磨国姫路52万石の大大名となった池田家と徳川家を固く結びつけました。
- 三女・振姫(正清院、1580年〜1617年):母は側室・お竹の方(良雲院、市川氏)です。豊臣秀吉の命により会津92万石の名将・蒲生氏郷の嫡男である蒲生秀行と婚約し、慶長3年(1598年)に輿入れしました。関ヶ原合戦後、秀行は家康の女婿であることから宇都宮18万石から旧領・会津60万石への復帰を果たします。慶長17年(1612年)に秀行が死去すると、振姫は長男・蒲生忠郷、次男・忠知を会津に残したまま、元和元年(1615年)に家康の命で紀伊和歌山城主(のち安芸広島藩主)・浅野長晟へ再嫁し、翌元和2年に浅野光晟(広島藩2代藩主)を出産したのち、元和3年(1617年)に数え38歳で没しました。
- 四女・松姫と五女・市姫:いずれも数え4〜5歳で夭折しましたが、慶長12年(1607年)生まれの末娘・市姫(母はお梶の方[英勝院])は、伊達政宗の嫡男・伊達忠宗と婚約していました。市姫が慶長15年(1610年)に早世したため、のちに2代将軍秀忠が池田輝政と督姫の娘(振姫・孝勝院)を養女として忠宗に嫁がせ、伊達家との婚姻関係を維持しています。
時代背景と関係人物
| 人物 | 関係・時期 | 影響・補足 |
|---|---|---|
| 松平信康 | 家康の長男(1559年〜1579年) | 母は築山殿。岡崎城主として徳川領国の東半分を担ったが、天正7年に二俣城で自刃し、2人の娘が小笠原家・本多家へ嫁いだ。 |
| 結城秀康 | 家康の次男(1574年〜1607年) | 母はお万の方(長勝院)。羽柴秀吉の養子、結城晴朝の養子を経て越前北庄68万石に入封し、越前松平家の礎を築いた。 |
| 松平忠吉 | 家康の四男(1580年〜1607年) | 母はお愛の方(西郷局)。東条松平家を継ぎ、関ヶ原の戦い後に尾張清洲52万石を領したが、嗣子なく数え28歳で早世した。 |
| 武田信吉 | 家康の五男(1583年〜1603年) | 母は武田信玄の娘・下山殿。武田氏の名跡を継ぎ、関ヶ原後に常陸水戸15万石へ入封したが、数え21歳で病没し絶家となった。 |
| 松平忠輝 | 家康の六男(1592年〜1683年) | 母は茶阿局。長沢松平家を継ぎ、越後高田城を築いて大領を治めたが、大坂の陣後の元和2年に改易され諏訪で没した。 |
| 亀姫(加納御前) | 家康の長女(1560年〜1625年) | 母は築山殿。奥三河の奥平信昌に嫁ぎ、宇都宮藩奥平家や美濃加納藩、大坂城主・大和郡山藩主となる松平忠明を生んだ。 |
| 督姫(良正院) | 家康の次女(1565年〜1615年) | 母は西郡局。北条氏直に嫁ぎ、死別後に播磨姫路藩主となる池田輝政へ再嫁して岡山藩・鳥取藩池田家の血統に連なった。 |
| 振姫(正清院) | 家康の三女(1580年〜1617年) | 母は良雲院。会津の蒲生秀行に嫁いで忠郷・忠知を生み、死別後に浅野長晟へ再嫁して広島藩2代藩主・浅野光晟を生んだ。 |
年表
年表
※月日は当時の旧暦(太陰太陽暦)を基準に表記
嫡男・松平信康の誕生、岡崎城主就任と二俣城での自刃
家康の嫡男として岡崎城主となり織田信長の娘・徳姫と婚姻するが、天正7年に母・築山殿とともに処断され、二俣城で自刃する。
次男・於義丸(結城秀康)が羽柴秀吉の養子、次いで結城晴朝の養子となる
小牧・長久手の戦いの講和に際して秀吉の養子(羽柴秀康)となり、小田原合戦後に下総国の名族・結城家を継いで結城秀康と名乗る。
五男・武田信吉の武田名跡継承と、四男・松平忠吉の忍城10万石入封
武田信玄の娘・下山殿を母とする信吉が武田氏の名跡を継いで下総小金・佐倉へ入り、東条松平家を継いだ忠吉が武蔵忍10万石を与えられる。
次女・督姫が池田輝政へ再嫁、三女・振姫が蒲生秀行との婚姻を進める
小田原開城後に北条氏直と死別した督姫が秀吉の仲介で池田輝政に再嫁し、振姫が会津の蒲生秀行へ輿入れ(慶長3年成立)して東国の要衝を結ぶ。
関ヶ原の戦い後の論功行賞により、秀康が越前北庄68万石、忠吉が尾張清洲52万石へ入封
東軍の主力を担った秀康と忠吉に大封が与えられ、親藩による北陸道・東海道の防衛拠点が形成される。
五男・武田信吉の常陸水戸15万石入封と早世
佐竹氏の秋田転封後の水戸城に入るが、翌慶長8年に数え21歳で病没し、嗣子なく武田信吉家は絶家となる。
四男・松平忠吉と次男・結城秀康が相次いで死去
3月に清洲藩主・忠吉が数え28歳で死去して無嗣絶家となり(遺領は九男・義直へ)、閏4月に越前北庄の結城秀康が数え34歳で死去する。
六男・松平忠輝の越後入封と天下普請による高田城築城
信濃川中島から越後福島へ加増移封された忠輝が、舅・伊達政宗を総奉行とする天下普請によって高田城を築く。
六男・松平忠輝の改易と伊勢朝熊への配流
大坂夏の陣における軍律違反や遅参などを問われ、家康死去から3か月後に2代将軍秀忠より改易を命じられる。
ゆかりの地

旅猫の案内
二俣城跡
天竜川と二俣川の合流点にある天然の要害であり、武田氏との攻防の舞台となったほか、天正7年(1579年)9月15日に家康の嫡男・松平信康が幽閉の末に自刃した城。
訪れる価値・見どころ
天竜川に面した急崖上の本丸跡に堀尾吉晴期の野面積み天守台石垣や二の丸枡形門跡、土塁、空堀(堀切)が良好に残り、国指定史跡として整備されている。
清瀧寺(信康廟)
二俣城で自刃した松平信康の遺骸が葬られ、天正9年(1581年)に家康が信康の法名(清瀧寺殿)にちなんで寺号を改め建立した信康の菩提寺。
訪れる価値・見どころ
本堂裏手の高台に家康が建立した松平信康の廟所(信康廟)と殉死者の墓が祀られているほか、境内の庭園には二俣城から移築されたと伝わる井戸櫓が残る。
福井城跡
家康の次男・結城秀康が関ヶ原合戦後の慶長6年(1601年)に越前68万石で入封し、慶長11年(1606年)にかけて築き上げた越前松平家の本拠(当初は北庄城、3代忠昌期に福井城と改称)。
訪れる価値・見どころ
足羽山産の青緑色の笏谷石(しゃくだにいし)を用いた壮大な本丸石垣や内堀、天守台が現存し、本丸内の「福の井」や結城秀康像を見学できる。
清洲城
関ヶ原の戦い後、家康の四男・松平忠吉が52万石で入封して東海道の抑えを担い、忠吉の早世後は九男・徳川義直が名古屋城遷府(清洲越し)まで居城とした。
訪れる価値・見どころ
五条川沿いに模擬天主閣や芸能文化館が整備され、清洲城の歴史展示や発掘された石垣遺構を見学できる。
高田城址公園(高田城跡)
家康の六男・松平忠輝が慶長19年(1614年)に天下普請によって築いた居城跡。忠輝改易後は結城秀康の嫡男・忠直の子である松平光長らも藩主を務めた。
訪れる価値・見どころ
広大な水堀と土塁の縄張りが残り、復元された高田城三重櫓(展示室・展望室)や隣接する上越市立歴史博物館で高田藩の歴史を学べる。
姫路城
家康の次女・督姫(良正院)が北条氏直との死別後に再嫁した池田輝政の居城であり、督姫が生んだ忠継・忠雄ら池田家一門や、のちに家康の孫・千姫や松平忠明とも深く関わった西国の要衝。
訪れる価値・見どころ
池田輝政が慶長年間に行った大改築による国宝の大天守・小天守群や渡櫓、西の丸の百間廊下などが現存する世界遺産。
まとめ
将軍宗家と御三家を除く「家康の子どもたち」の歩みを振り返ると、そこには戦国大名から天下人へと駆け上がった家康の時代状況が鮮明に刻まれています。信長・武田との緊張のなかで命を落とした長男・信康、秀吉への人質・養子として徳川家を守り越前68万石を開いた次男・結城秀康、関ヶ原直後の東海・関東の要衝を担いながら相次いで早世した忠吉と信吉、そして集権化が進む幕藩体制のなかで改易された忠輝。男子のうち子の世代からさらに家系を存続させたのは、宗家の秀忠と御三家の3人を除けば、事実上、次男・結城秀康の系統のみでした。
一方で、亀姫・督姫・振姫という娘たちが奥平・池田・蒲生・浅野などの諸大名家に残した血脈は、第3世代(家康の孫の世代)において幕府と諸藩をつなぐ大きな網の目となっていきます。次回の第3回では、この「家康の孫の世代」による分立と、全国へ広がった「松平家」の系譜を詳しく見ていきます。


