
徳川将軍家|宗家の継承、正室・側室と分家が支えた二百六十五年

基本情報
| 氏名・名称 | 徳川将軍家(とくがわしょうぐんけ) |
|---|---|
| 主な居城・拠点 | 江戸城(武蔵国豊島郡・現在の東京都千代田区) |
| 家族・一族 | 徳川宗家(初代家康〜15代慶喜、16代家達)、分家に御三家・御三卿・越前松平家・会津松平家など |
| 種類 | 人物 (武将・偉人など) |
| 時代 | 江戸時代 |
| 主な地域 | 東京都、栃木県、静岡県 |
| 関連タグ | #徳川将軍家#徳川一族#江戸幕府#江戸城#増上寺#寛永寺 |
この連載の記事一覧(全5回)
- 第1回:徳川将軍家|宗家の継承、正室・側室と分家が支えた二百六十五年(現在の記事)
- 第2回:徳川家康の子と、その家々|宗家・御三家以外の諸子と娘たちの婚姻網
- 第3回:公開をお待ちください
- 第4回:公開をお待ちください
- 第5回:公開をお待ちください
※本記事の年表および本文中に記載される歴史上の月日は、当時の旧暦(太陰太陽暦)に基づいています。
はじめに――個人伝記ではなく「宗家という制度」として見る徳川将軍家
江戸幕府の頂点にあった「徳川将軍家(徳川宗家)」は、徳川家康から15代徳川慶喜に至るまで、約265年にわたって征夷大将軍の地位を独占し続けました。学校教育や一般的な通史では、家康・秀忠・家光・綱吉・吉宗・慶喜といった個々の将軍の政治改革や治績が順番に語られることが多くあります。しかし、戦国期の下克上や織田・豊臣政権がいずれも短期間で後継者争いや血統の危機に直面したのに対し、なぜ徳川将軍家だけがこれほど長期にわたり「将軍職の世襲」を維持できたのかという問いは、個人の能力だけでは説明できません。
実際、徳川将軍家の系譜を子細にたどると、父から実子へと将軍職がそのまま受け継がれたのは15代のうち半分にも満たないことが分かります。4代家綱、7代家継、10代家治、13代家定、14代家茂など、将軍に嗣子がないまま死去する危機は何度も訪れました。さらに、3代家光以降の歴代将軍において、京都の摂家や宮家などから迎えられた正室(御台所)が次代将軍を生んだ例は一度もなく、世子の誕生は大奥の側室に委ねられていました。
本稿では、徳川一族をめぐる全5回連載の第1回として、歴代将軍の個人経歴を並べるのではなく、「徳川宗家はいかにして将軍職を世襲化し、どのような婚姻・大奥・養子継承・祭祀の仕組みによって265年間の存続を図ったのか」という家の構造そのものに焦点を当てます。
宗家の確立と「長子相続」原則の定着
関ヶ原の戦いから3年後の慶長8年(1603年)2月、徳川家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受けました。しかし家康は、わずか2年後の慶長10年(1605年)4月には将軍職を辞し、三男の徳川秀忠に2代将軍の座を譲っています。この早期の将軍職移譲は、豊臣秀頼を擁する大坂方の存在を意識しつつ、「天下の公儀たる将軍職は徳川宗家が代々世襲するものである」という原則を朝廷と全国の諸大名に既成事実として示す高度な政治判断でした。
家康は駿府城へ退いた後も「大御所」として軍事・外交・大名統制の実権を握り続け、江戸の将軍・秀忠との二元政治を通じて幕府の基礎を固めました。そして元和2年(1616年)に家康が死去すると、秀忠もまた元和9年(1623年)7月に長男(次男ともされるが世子としての嫡男)の徳川家光へ将軍職を譲り、自らは江戸城西の丸に入って大御所となります。
この3代家光の将軍継承において、徳川宗家の家督相続に関する重要な原則が確立されました。家光には同母弟の徳川忠長(駿河大納言)がおり、母・崇源院(江)の寵愛などを背景に幼少期には後継をめぐる動揺があったとする逸話が後世の編纂物(『藩翰譜』や『徳川実紀』など)に記されています。近年の研究では、秀忠・家康の段階から嫡男である家光を後継とする方針自体は一貫していたとみられていますが、家光が将軍に就任し、寛永9年(1632年)の秀忠死去後に忠長を改易・自刃へ追い込んだことで、「将軍宗家の嫡長子は、たとえ同母の弟であっても他の兄弟とは隔絶した主君である」という厳格な長子単独相続と宗家絶対優位の原則が揺るぎないものとなりました。

調査猫の補足
将軍職の継承では、前将軍の隠居(2代秀忠・3代家光・8代吉宗・9代家重・11代家斉)による生前譲位と、前将軍の死去に伴う代替わりの双方が行われました。特に初期の家康から秀忠、秀忠から家光への2世代連続の生前譲位は、前将軍が「大御所」として後見しながら新将軍の権威を諸大名に承認させる仕組みとして大きな役割を果たしたのです。
将軍家の婚姻構造――五摂家・宮家からの「御台所」と大奥の側室
徳川宗家の婚姻には、他の大名家とは大きく異なる独自の特徴がありました。初代家康の正室・築山殿(今川氏一門・関口氏)や継室・朝日姫(豊臣秀吉の妹)、2代秀忠の正室・崇源院(浅井長政の娘、豊臣秀吉の養女)までは、戦国・織豊期の政治的同盟を背景として武門から正室が迎えられていました。
ところが、3代家光が五摂家の一つである鷹司信房の娘・孝子(本理院)を正室(御台所)に迎えて以降、徳川将軍家の正室は原則として京都の五摂家(近衛・鷹司・一条・二条・九条)または四親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮)などの公家・皇族から迎えられる慣例が定着します。例外は、のちに五摂家の近衛家養女という形式をとって薩摩藩島津家から11代家斉に嫁いだ広大院(寔子)や、13代家定に嫁いだ天璋院(篤姫)、一橋家時代に一条家等から迎えられた夫人、そして孝明天皇の皇女として14代家茂に降嫁した静寛院宮(和宮)などであり、いずれも朝廷・公家社会との形式的な結合を体現する婚姻でした。
この婚姻構造の目的は、武家の棟梁である徳川将軍家が特定の外様大名や譜代大名と直接の外戚関係を持つことで幕政の均衡が崩れるのを防ぎ、同時に朝廷の権威を将軍家の格式に取り込むことにありました。しかしその一方で、3代家光から15代慶喜に至るまで、正室(御台所)が次の将軍となる男子を出産した例は一度もありませんでした。2代秀忠の正室・崇源院(江)が3代家光を生んだのを最後に、4代家綱以降のすべての実子将軍は側室を母として誕生しています。
そのため、江戸城本丸の北奥に設けられた「大奥」は、単なる将軍の私生活の場ではなく、宗家の血統を次世代へつなぐための制度的空間として機能しました。たとえば3代家光の側室・お楽の方(宝樹院、4代家綱生母)やお玉の方(桂昌院、5代綱吉生母)、8代吉宗の側室・お須磨の方(深徳院、9代家重生母)のように、出自が町人や下級武士・京都の公家雑掌などであっても、将軍の世子を生んだ女性は「御生母」として城内で高い処遇を受け、その実家や親族が幕臣・大名に取り立てられることもありました。
直系断絶の危機と、分家からの養子継承の変遷
大奥の側室制度をもってしても、当時の高い乳幼児死亡率のなかで将軍の実子が成人し、無事に次代へ血統をつなぐことは容易ではありませんでした。徳川将軍家の265年間は、直系断絶の危機と分家からの養子迎え入れの歴史でもありました。その変遷は大きく4つの段階に整理できます。
第1段階:家光の子・孫世代による兄弟・甥への継承(4代〜7代)
3代家光の長男である4代将軍・徳川家綱が延宝8年(1680年)に嗣子なく死去した際、家光の四男で上野国館林藩主となっていた徳川綱吉が養子として宗家に入り、5代将軍に就任しました。これが分家から宗家を継いだ最初の事例です。
その綱吉も実子の徳松を幼くして失い、宝永6年(1709年)に死去します。このとき後を継いだのは、家光の三男・甲府宰相徳川綱重の長男である徳川綱豊(6代将軍・徳川家宣)でした。これにより館林徳川家と甲府徳川家はともに宗家へ吸収されて廃藩となります。しかし、家宣の実子である7代将軍・徳川家継が正徳6年(1716年、享保元年)に数え8歳で夭折したことで、2代秀忠・3代家光から続いてきた直系の男系血統は完全に途絶えることになりました。
第2段階:御三家・紀伊徳川家からの宗家入嗣(8代吉宗)
7代家継の死去という創業以来最大の危機に際し、幕府重臣や前将軍家宣の正室・天英院らの合議によって迎えられたのが、御三家の一つ・紀伊和歌山藩55万5千石の藩主であった徳川吉宗でした。吉宗は家康の十男・徳川頼宣の孫(家康の曾孫)にあたり、当時の御三家当主のなかで家康との世代が最も近く、藩主としての統治実績を備えていました。
吉宗が8代将軍に就任したことで、徳川宗家の血統は「秀忠・家光系」から「紀伊頼宣系」へと大きく転換します。家康が創設した「宗家に嗣子なきときは御三家から後嗣を立てる」という仕組みが、幕府開府から約110年を経て初めて実際に発動した瞬間でした。
第3段階:御三卿・一橋徳川家への血統移行(11代家斉〜14代家茂)
御三家から宗家へ入った吉宗は、御三家自体が世代を重ねて宗家との血縁が遠くなりつつあることを痛感していました。そこで吉宗は、長男の家重(9代将軍)に宗家を継がせる一方、次男の宗武に田安家、四男の宗尹に一橋家を江戸城内に創設させ、9代家重も次男の重好に清水家を創設させました。これが「御三卿」です(詳細は第5回で扱います)。
この備えは早くも10代将軍・徳川家治の代に現実のものとなります。家治の長男・徳川家基が安永8年(1779年)に18歳で急死し、他の男子も早世したため、吉宗直系の男系が再び途絶えたのです。そこで天明元年(1781年)、一橋宗尹の孫にあたる豊千代(11代将軍・徳川家斉)が家治の養嗣子に迎えられ、天明7年(1787年)に11代将軍となりました。
家斉は50年にわたり将軍職にあり、側室との間に50人以上の子女をもうけました。そのうち12代将軍となった徳川家慶、および家慶の子である13代将軍・徳川家定はいずれも家斉の直系です。さらに家斉は、自らの男子や娘を紀伊徳川家・尾張徳川家・一橋家・田安家・清水家や有力大名家へ次々と養子・婚姻として送り込み、徳川一門全体の血統を「家斉の血縁」で再編成しました。
第4段階:幕末の継嗣問題と徳川宗家の存続(14代家茂・15代慶喜・16代家達)
幕末の安政5年(1858年)、病弱であった13代将軍・家定の後継をめぐり、11代家斉の孫にあたる紀州藩主・徳川慶福(のちの14代家茂)を推す南紀派(井伊直弼ら)と、水戸藩主・徳川斉昭の七男で一橋家を継いでいた一橋慶喜を推す一橋派(松平春嶽・島津斉彬ら)が激しく対立しました(安政の将軍継嗣問題)。
血統の近さを重視した裁定によって慶福が14代将軍・家茂となりますが、第二次長州征討の最中である慶応2年(1866年)7月、家茂は大坂城で数え21歳にて病没します。この国難のなかで一橋慶喜がまず「徳川宗家」を相続し、同年12月に15代将軍の宣下を受けました。なお、慶喜は将軍在任中、一度も江戸城に入城することなく京都(二条城など)で政務を執り、慶応3年(1867年)10月に大政奉還を行います。
翌慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いを経て慶喜が上野・寛永寺大慈院で謹慎し、江戸城が無血開城されると、徳川宗家の存続が認められ、御三卿・田安家の田安亀之助(徳川家達、当時数え6歳)が16代当主として宗家を相続しました。徳川宗家は駿河・遠江・三河の一部70万石(静岡藩)へ移封され、明治17年(1884年)の華族令では家達が公爵に叙せられて貴族院議長などを歴任し、明治35年(1902年)には前将軍・慶喜にも別途公爵が授けられて「徳川慶喜家」が創設されました。

歴史マニア猫の補足
15代慶喜が慶応2年(1866年)に跡を継いだ際、7月にまず「徳川宗家」の家督を相続しながら、征夷大将軍の宣下を受けるまで約4か月間の空白がありました。それまで「徳川宗家の当主になること」と「将軍になること」は一体とみなされていましたが、幕末の政治危機のなかで両者を切り離して交渉材料とした点に、慶喜期の特殊な政治状況が表れています。
祭祀と菩提寺――東照宮と増上寺・寛永寺の二大霊廟体制
徳川将軍家の権威を精神面・儀礼面から支えたのが、初代家康を神として祀る「東照宮」と、歴代将軍を葬る二大菩提寺「増上寺」「寛永寺」の体制でした。
元和2年(1616年)4月に駿府城で死去した家康は、遺言に従ってまず駿河の久能山東照宮に埋葬され、朝廷から「東照大権現」の神号を宣下されたのち、翌元和3年(1617年)に下野国の日光東照宮へ勧請・改葬されました。3代家光は祖父・家康への崇敬が極めて篤く、寛永13年(1636年)の「寛永の大造替」によって現在見られる絢爛豪華な日光東照宮の社殿群を造営し、自らも死後は日光山内の「大猷院(たいゆういん)」に葬られて東照大権現に永く仕える道を選びました。
一方、江戸における将軍家の菩提寺は、当初は家康が天正18年(1590年)の江戸入府時に帰依した浄土宗の芝・増上寺(東京都港区)が一手に担い、2代秀忠(台徳院)の広大な霊廟が増上寺に造営されました。しかし3代家光期に、江戸城の北東(鬼門)にあたる忍岡(上野)に天海大僧正によって天台宗の東叡山・寛永寺(東京都台東区)が創建され、4代家綱(厳有院)の霊廟が寛永寺に造営されたことで、以後の将軍家墓所は増上寺と寛永寺の2か所に分かれることになります。
結果として、初代家康と3代家光が日光(久能山・日光東照宮・輪王寺大猷院)、2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂の6人が芝の増上寺、4代家綱・5代綱吉・8代吉宗・10代家治・11代家斉・13代家定の6人が上野の寛永寺、そして最後の15代慶喜が寛永寺墓地飛び地(谷中霊園内)の神式墓所に葬られました。15人の将軍の墓所が日光・芝・上野(谷中)の3地域に集約されていることは、将軍家が幕末に至るまで「江戸と日光を結ぶ祭祀空間」を一貫して維持し続けたことを示しています。
時代背景と関係人物
| 人物 | 関係・時期 | 影響・補足 |
|---|---|---|
| 徳川家康 | 初代将軍・宗家始祖(在職1603年〜1605年) | 征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、2年で秀忠へ将軍職を譲って徳川宗家による将軍職世襲の原則を確立した。 |
| 徳川秀忠 | 2代将軍(在職1605年〜1623年) | 家康の三男。武家諸法度や禁中並公家諸法度の発布に携わり、嫡男・家光への生前譲位によって宗家の長子相続を定着させた。 |
| 徳川家光 | 3代将軍(在職1623年〜1651年) | 秀忠の嫡男。参勤交代の制度化や幕府機構の整備を進め、五摂家・鷹司家から正室を迎えて以後の将軍家婚姻の先例を開いた。 |
| 徳川綱吉 | 5代将軍(在職1680年〜1709年) | 家光の四男、旧館林藩主。4代家綱に嗣子がなかったため、分家から初めて宗家に迎えられて将軍職を継承した。 |
| 徳川吉宗 | 8代将軍(在職1716年〜1745年) | 紀伊徳川家2代光貞の四男。7代家継の夭折により御三家から初めて宗家に入り、のちに御三卿の基礎を創設した。 |
| 徳川家斉 | 11代将軍(在職1787年〜1837年) | 一橋徳川家2代治済の長男。10代家治の養嗣子として御三卿から初めて将軍となり、多数の子女を通じて一門の血統を再編した。 |
| 徳川慶喜 | 15代将軍(在職1866年〜1867年) | 水戸藩主徳川斉昭の七男、一橋徳川家当主。14代家茂の死去により宗家を継ぎ、大政奉還を行って幕府の幕を引いた。 |
| 徳川家達 | 徳川宗家16代当主(1868年相続) | 田安徳川家7代慶頼の三男(幼名・亀之助)。慶喜の謹慎後に徳川宗家を相続し、静岡藩知事、のち公爵・貴族院議長を務めた。 |
年表
年表
※月日は当時の旧暦(太陰太陽暦)を基準に表記
徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開府
伏見城にて将軍宣下を受け、源氏長者・淳和奨学両院別当などを兼ねて武家の棟梁としての地位を確立する。
三男・徳川秀忠への将軍職譲位と宗家世襲の明示
家康が在任わずか2年で将軍職を秀忠へ譲り、天下の政権が徳川宗家に世襲されることを諸大名と朝廷に示す。
家康の死去と久能山埋葬・日光東照宮への勧請
死去した家康が久能山に葬られ、朝廷から「東照大権現」の神号が宣下されて翌年日光へ改葬・勧請される。
秀忠から3代徳川家光への将軍職継承と長子相続原則の確立
秀忠が隠居して大御所となり、嫡男・家光が3代将軍に就任。以後、徳川宗家における嫡長子優先の原則が固まる。
4代徳川家綱の死去と館林藩主・徳川綱吉の宗家入嗣
家綱に嗣子がなく、異母弟の館林藩主・綱吉が養子として5代将軍を継ぎ、初めて分家からの宗家継承が行われる。
甲府徳川家からの6代家宣・7代家継の二代と、家康曾孫世代の直系断絶
綱吉の甥・甲府藩主綱豊(家宣)が6代将軍となり、その子・家継が7代を継ぐが数え8歳で早世し、3代家光以来の男系が途絶える。
紀州藩主・徳川吉宗の宗家入嗣と8代将軍就任
御三家の紀伊徳川家から吉宗(家康の曾孫)が迎えられて8代将軍となり、後に宗家血統の藩屏として御三卿(田安・一橋)を創設する。
10代徳川家治の死去を受け、一橋徳川家から11代徳川家斉が将軍就任
吉宗直系の10代家治の男子が相次いで早世したため、御三卿の一橋家から家斉が入嗣し、以後の将軍血統は一橋系へ移る。
13代家定・14代家茂の継嗣問題と紀伊家・一橋家からの連続入嗣
13代家定の死去により紀州藩主・慶福(14代家茂)が継ぎ、家茂の大坂城での陣没により一橋慶喜が宗家を相続して15代将軍となる。
大政奉還・江戸開城と田安亀之助(徳川家達)による徳川宗家16代相続
慶喜の大政奉還と謹慎後、御三卿・田安家の亀之助(家達)が徳川宗家を継ぎ、駿府(静岡藩)70万石への移封を経て家名を存続させる。
ゆかりの地

旅猫の案内
江戸城跡(皇居東御苑)
徳川宗家(歴代15代将軍)が政務と儀礼を執り行った本丸・二の丸・西の丸が置かれた徳川幕府の中枢拠点。
訪れる価値・見どころ
広大な本丸御殿跡(表・中奥・大奥の区画)、加賀藩前田家が築いた天守台石垣、富士見櫓、百人番所などが現存・公開されている。
大本山 増上寺(徳川将軍家墓所)
天正18年(1590年)の家康江戸入府時に徳川家の菩提寺と定められ、2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂の6将軍と崇源院(江)・静寛院宮(和宮)らが葬られた。
訪れる価値・見どころ
大殿裏手に改葬・整備された徳川将軍家墓所があり、旧霊廟の青銅製門である「鋳抜門(いぬきもん)」や歴代将軍・正室・側室の宝塔を拝観できる。
東叡山 寛永寺
寛永2年(1625年)に3代将軍家光のもとで天海が創建した江戸城鬼門鎮護の寺院であり、4代家綱・5代綱吉・8代吉宗・10代家治・11代家斉・13代家定の6将軍と天璋院篤姫らが眠る将軍家菩提寺。
訪れる価値・見どころ
根本中堂での参拝が可能なほか、旧本坊表門(黒門)や清水観音堂・五重塔周辺に往時の伽藍の規模が伝わる。※徳川将軍家霊廟および慶喜謹慎の「葵の間」は通常非公開(特別参拝企画等でのみ公開)。
日光山輪王寺 大猷院
承応2年(1653年)に4代将軍家綱によって造営された、3代将軍徳川家光(大猷院)の霊廟。祖父・家康を祀る日光東照宮に向き合うように配置されている。
訪れる価値・見どころ
家光の「死後も東照大権現に仕える」という遺命を反映し、東照宮より控えめな黒と金を基調とした重厚な国宝の本殿・相の間・拝殿(金閣殿)や夜叉門・皇嘉門が現存する。
谷中霊園 徳川慶喜墓所
江戸幕府最後の将軍・15代徳川慶喜と正室・美賀子が眠る墓所(寛永寺墓地飛び地・東京都指定史跡)。
訪れる価値・見どころ
仏式宝塔が並ぶ歴代将軍墓とは異なり、慶喜自身の遺言により神式の円墳(葺石を伴う墳丘墓)として築かれており、柵の外側から通年参拝・見学できる。
まとめ
徳川将軍家(徳川宗家)の265年間は、単なる一本の家系図ではなく、時代の危機に応じて制度を柔軟に組み替えながら「公儀の象徴としての宗家」を守り抜いた歴史でした。家康・秀忠・家光による世襲と長子相続の確立、朝廷・公家社会と結びついた御台所の迎入と大奥による世子誕生、そして直系が途絶えた際に館林家・甲府家・御三家・御三卿から養子を迎えて宗家を再生させる多層的な安全網こそが、長期政権の屋台骨だったのです。
次回の第2回では、この将軍宗家と御三家以外の「家康の子どもたち」に焦点を当て、長男・信康や次男・結城秀康、四男・松平忠吉、五男・武田信吉、六男・松平忠輝、そして有力大名へ嫁いだ娘たちがたどった多彩な運命と分家の成立を見ていきます。


