合戦・事件安土桃山時代

豊臣秀吉の四国平定(1585年) - 長宗我部氏との決戦と新体制の幕開け

公開: 2026-09-27
高知県、愛媛県、香川県、徳島県
長宗我部元親の四国拡大に対し、羽柴(豊臣)秀吉が軍を投じて行われた1585年の四国平定。その背景から多方面からの進軍、そして戦後の新たな四国体制への再編までを紐解きます。
豊臣秀吉の四国平定(1585年) - 長宗我部氏との決戦と新体制の幕開けのイメージ

基本情報

出来事・名称四国平定(豊臣秀吉)
発生時期・期間1585年(天正13年)6月〜7月(軍事侵攻・降伏)、8月(四国国分)※月日は旧暦
主な舞台四国地方全域(阿波・讃岐・伊予・土佐)
主な当事者・勢力羽柴(豊臣)秀吉軍(総大将:羽柴秀長)、長宗我部元親軍
背景・争点織田信長没後の秀吉と長宗我部氏の対立、四国の領有権を巡る交渉の決裂
主な経過秀吉軍が阿波・讃岐・伊予の3方面から四国へ侵攻し、各地の城を攻略
結果長宗我部元親の降伏。土佐一国のみを安堵される
その後への影響秀吉による四国国分の実施、政権に服属する大名による領国支配へ再編
種類合戦・事件
時代安土桃山時代
主な地域高知県、愛媛県、香川県、徳島県
関連タグ
#四国平定#豊臣秀吉#長宗我部元親#戦国合戦

はじめに

天正13年(1585年)、羽柴(豊臣)秀吉の軍勢が海を渡り四国へと侵攻しました。一般に「四国平定」と呼ばれるこの出来事は秀吉側からの呼称であり、本記事では1585年の軍事侵攻から長宗我部氏の服属、そして戦後の領土再編(四国国分)までを扱います。

迎え撃った長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)は、土佐(現在の高知県)から勢力を広げ、四国の広い範囲に影響を及ぼしていました。秀吉軍と元親の激突は四国全土を巻き込む戦役となり、四国の戦国時代の終わりと、新たな体制の幕開けをもたらしました。

背景と対立の構図

もともと長宗我部元親は、織田信長と友好関係を結びながら四国での勢力を拡大していました。しかし、信長が阿波(徳島県)への介入を決定し、元親への四国返還要求を突きつけたことで関係は悪化します。天正10年(1582年)、信長の四国征伐軍が海を渡る直前に「本能寺の変」が起き、元親は危機を脱しました。

その後、元親は阿波・讃岐(香川県)へと侵攻を強めます。一方で、中央では信長の後継者として秀吉が台頭。秀吉は四国内の対長宗我部勢力(十河存保など)を支援したため、元親は柴田勝家や徳川家康ら反秀吉派と結んで対抗しました。

天正13年(1585年)に入り、秀吉は元親に対し、土佐と阿波の一部を安堵する代わりに伊予(愛媛県)と讃岐を返還するよう求めました。これを元親が拒否したことで、全面対決が決定的となったのです。

人物・勢力立場・役割関係・補足
羽柴(豊臣)秀吉中央政権(攻撃側)の主導者天下統一の一環として元親に服属と領土返還を要求。同年に関白に就任(「豊臣」賜姓の前年)。
羽柴秀長秀吉軍の総大将(阿波方面)秀吉の弟。本陣を置き、長宗我部方の諸城を攻略し、降伏交渉も担った。
長宗我部元親四国の戦国大名(防衛側)四国各地へ勢力を広げたが、秀吉の要求を拒否して決戦に臨み、最終的に降伏した。
小早川隆景秀吉軍の伊予方面軍主将毛利軍を率いて伊予に上陸。金子元宅ら現地の激しい抵抗(天正の陣)を平定した。
十河存保讃岐の領主(親秀吉派)長宗我部軍に敗れて秀吉を頼り、自領奪還を目指して参戦した。
調査猫

調査猫の補足

長宗我部元親の勢力拡大についてですが、秀吉軍が侵攻してきた時点でも、阿波や伊予の一部などには長宗我部氏に服属していない勢力が残っていました。そのため、四国全域を完全に支配していたわけではありません。

出来事の経過

天正13年(1585年)6月、秀吉軍は三方面から四国への侵攻を開始しました。当初、秀吉自身が出陣する予定でしたが、病気を理由に弟の羽柴秀長を総大将としました。

調査猫

調査猫の補足

秀吉本人は四国へ渡海せず、大坂や畿内に留まりました。秀吉が戦略的な命令や戦後処理の決定権を握る一方で、現地での実際の軍団指揮や戦術的な判断、降伏交渉などは、総大将である羽柴秀長らが担っていました。

1. 三方面からの侵攻と、元親の防衛配置

秀吉軍は、阿波(徳島県)方面を総大将の羽柴秀長、讃岐(香川県)方面を宇喜多秀家、伊予(愛媛県)方面を小早川隆景らが率い、それぞれのルートから四国へ進軍しました。

これに対する長宗我部元親は、白地城(しらくちじょう・現在の徳島県三好市)に本陣を置きました。白地城は四国の中央部に位置するだけでなく、吉野川とその支流が交わる交通・水運の要衝であり、四カ国を結ぶ「四国の十字路」として機能していました。元親はこの城を拠点として全軍の指揮を執りました。

2. 阿波方面――諸城への攻撃と一宮城の攻防

阿波へ上陸した羽柴秀長・蜂須賀正勝らの本軍は、まず阿波東部の拠点を次々と攻略します。 鳴門市の平山城・木津城(きづじょう)では水の手を断って城将を降伏させました。この敗報を受けた阿南市の牛岐城(うしきじょう)では、元親の弟・香宗我部親泰が退却します。並行して、美馬市の平山城・脇城(わきじょう)などは、羽柴秀次や黒田孝高(官兵衛)が率いる別働隊によって攻略されました。

阿波防衛の最大の要となったのが、徳島市の山城・一宮城(いちのみやじょう)です。秀長は大軍による包囲網を敷き、水断ちを実施しました。守備側の谷忠澄(たに ただずみ)らは抗戦不能と判断し、ついに開城します。なお、現在一宮城跡に残る石垣は、戦闘当時のものではなく、戦役後に阿波に入った蜂須賀氏によって整備されたものです。

3. 讃岐方面――上陸と阿波方面への展開

讃岐方面では、宇喜多秀家を大将とし、仙石秀久らが加わった大軍が、高松市の屋島付近に上陸しました。当時の屋島周辺は現在と海岸線が異なり、水軍の展開にも適した場所でした。

宇喜多軍は喜岡城などを陥落させながら讃岐の主要部を制圧し、そのまま南下して阿波国へ進入します。そして、一宮城を包囲していた羽柴秀長の本軍と合流し、長宗我部軍に対する包囲網を完成させました。

4. 伊予方面――「天正の陣」と河野氏の開城

小早川隆景率いる毛利軍が上陸した伊予方面では、在地領主の金子元宅(かねこ もといえ)らが激しい抵抗を見せました。地元で「天正の陣」と呼ばれる戦いです。

歴史マニア猫

歴史マニア猫の補足

金子元宅は自らの居城である金子城(新居浜市の丘陵部)を弟に託し、自身は西条市寄りの高尾城へ入って毛利の大軍を迎え撃ちました。四国側の必死の覚悟がうかがえますね。

高尾城をめぐる戦闘で元宅は命を落とし、周辺の諸城も陥落しました。 ただし、伊予全域がすぐに陥落したわけではなく、伊予ではその後も制圧が続き、松山市の平山城・湯築城(ゆづきじょう)に籠城していた伊予の旧名門・河野通直も小早川隆景の勧告を受けて開城しました。

5. 元親の降伏と戦役の収束

一宮城を開城した谷忠澄は、本陣の白地城へ赴き、豊臣軍との戦力差を伝えて元親に降伏を進言しました。 『土佐物語』には谷忠澄が元親に降伏を説く逸話が描かれていますが、会話や心理描写は後世の叙述として扱う必要があります。一方、戦後に元親が蜂須賀正勝へ送った書状には、秀吉の赦免を得るための取りなしへの謝意が記されており、正勝が両者の仲介に関わったことがうかがえます。

天正13年7月25日頃、元親は和議を受け入れ、長宗我部軍の抵抗は収束しました。

結果と歴史への影響

伊予・讃岐の諸城が次々と陥落し、頼みとしていた阿波の一宮城も失った元親は、家臣である谷忠澄らの懸命な説得を受け入れ、同年7月下旬に秀長へ降伏を申し入れました。

8月、秀吉による戦後処理(論功行賞)が決定し、「四国国分(しこくくにわけ)」が行われました。元親は命こそ助けられましたが、阿波・讃岐・伊予を没収され、土佐一国のみの領有を安堵されました。 空いた三国には、阿波に蜂須賀家政、讃岐に仙石秀久(後に改易され、1587年に生駒親正が入封)、伊予に小早川隆景らが入りました。彼らは新たな城を築き、領国支配と城下町を整備していくことになります。

この四国平定によって、四国地方は秀吉の政権に服属する大名による領国支配へ再編されました。秀吉の天下統一はさらに西へと進展し、1587年の九州平定へとつながっていくことになります。一方で、長宗我部元親はこれ以降、豊臣政権下の一大名として九州征伐や小田原征伐へ動員されていくことになります。

年表

※年齢は数え年で表記

1582年(天正10年)6月

本能寺の変と四国情勢の変化

(※本年表の月日はすべて旧暦)織田信長の横死により四国征伐軍の渡海が中止となる。長宗我部元親はこれを機に阿波・讃岐へ勢力を拡大する。

1583年(天正11年)4月

賤ヶ岳の戦い

羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家の対立に乗じ、元親は反秀吉方に通じて四国内の親秀吉派を圧迫する。

1584年(天正12年)

小牧・長久手の戦い

徳川家康や織田信雄と結んだ元親が、伊予や讃岐の親秀吉派を攻撃。十河存保らが敗れて秀吉を頼る。

1585年(天正13年)春

交渉決裂

秀吉から元親へ、伊予・讃岐の返還などを条件とした領土交渉が持ちかけられるが、元親はこれを拒否して決裂する。

1585年(天正13年)6月

秀吉軍の四国上陸

秀吉の命を受け、羽柴秀長を総大将とする軍勢が阿波へ、宇喜多秀家らが讃岐へ、小早川隆景らが伊予へ侵攻を開始する。

1585年(天正13年)7月

一宮城の戦い

秀長軍が長宗我部方の拠点である阿波・一宮城を包囲し、開城させる。

1585年(天正13年)7月下旬

長宗我部元親の降伏

多方面での敗報と一宮城陥落などを受け、家臣の説得もあって元親が秀吉軍に降伏する。

1585年(天正13年)8月

四国国分(領土再編)

秀吉による戦後処理。元親は土佐一国に減封。阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景らに与えられた。

ゆかりの地

SPOT 1

一宮城跡

四国平定戦において阿波方面の主戦場の一つとなった城

訪れる価値・見どころ

四国最大級の山城。秀長軍の包囲を受けて開城しました。現在見られる立派な石垣は、四国平定後に阿波へ入った蜂須賀家政によって整備されたものです。

見学目安: 1時間
交通: JR「徳島駅」からバス「一宮神社前」下車。
SPOT 2

勝瑞城跡

四国平定前に長宗我部軍と十河存保(親秀吉派)が激突した地

訪れる価値・見どころ

発掘調査により大規模な館跡や庭園跡が見つかっており、国史跡に指定されています。中世の阿波の政治拠点でした。

見学目安: 40分
交通: JR高徳線「勝瑞駅」から徒歩約10分。
SPOT 3

高松城跡(玉藻公園)

四国国分の後、1587年に讃岐を与えられた生駒親正が1588年から築城を開始

訪れる価値・見どころ

日本三大水城の一つ。四国平定後、新たな領国支配の拠点として瀬戸内海の水運を掌握できる地に整備されました。

見学目安: 1時間
営業: 公式案内を参照
料金: 公式案内を参照
交通: 高松琴平電気鉄道「高松築港駅」すぐ、またはJR「高松駅」から徒歩3分。
SPOT 4

湯築城跡(道後公園)

伊予方面の小早川隆景軍の侵攻を受け、開城した河野氏の居城

訪れる価値・見どころ

道後公園として整備されており、復元された武家屋敷や外堀・土塁が、伊予を支配した河野氏の最後の姿を伝えます。

見学目安: 45分
営業: 園内自由(資料館等は時間・定休日あり)
交通: 伊予鉄道「道後公園駅」すぐ。

まとめ

長宗我部元親による四国拡大の動きは、秀吉の軍事力によって崩れ去りました。しかし、各地で繰り広げられた攻防の跡は、今も城跡として残されています。

旅猫

旅猫の案内

阿波の一宮城跡や伊予の湯築城跡を訪れると、当時の城の規模感や、どのような地形に頼って防衛線を築いたのかが実感できます。四国国分で諸大名が入った後に築かれた高松城などの「近世城郭」と比較することで、この出来事がいかに四国の景色を変えたかを感じられるはずです。

参考資料・情報源

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