
佐久間信盛|尾張時代から織田家を支えた筆頭宿老、石山本願寺戦と高野山追放の実像

基本情報
| 氏名・名称 | 佐久間信盛(さくまのぶもり) |
|---|---|
| 生年・没年 | 享禄元年(1528年) - 天正10年(1582年) |
| 出身地 | 尾張国愛知郡山崎(現在の愛知県名古屋市南区呼続周辺) |
| 主な居城・拠点 | 山崎城(尾張国)、永原城(近江国)、天王寺砦(摂津国) |
| 種類 | 人物 (武将・偉人など) |
| 時代 | 戦国時代 / 安土桃山時代 |
| 主な地域 | 愛知県、滋賀県、大阪府、和歌山県 |
| 関連タグ | #佐久間信盛#山崎城#永原城#石山本願寺#十九ヶ条の折檻状#高野山#退き佐久間 |
はじめに
佐久間信盛(1528〜1582)は、織田信秀・信長の二代にわたって織田家を支え、尾張統一期から上洛戦、南近江の統治、そして大坂・石山本願寺攻囲戦に至るまで、常に家中の筆頭宿老(家老)として重きをなした武将です(※本記事の月日は原則として当時の旧暦で表記しています)。全盛期には尾張・三河・大和・河内・和泉・摂津・紀伊の7か国におよぶ与力・国衆を統括し、織田政権最大級の方面軍司令官の地位にありました。
しかし天正8年(1580年)8月、石山本願寺との和睦・退去が実現した直後に、信長から全十九ヶ条におよぶ厳しい譴責状(折檻状)を突きつけられ、嫡男・信栄(正勝)とともに高野山へ追放されたことから、後世には「無能で怠慢だった老臣」という一面的な評価で語られることも少なくありませんでした。本記事では、尾張時代以来の信盛の軍事・行政実績をたどりながら、石山本願寺戦の実態と高野山追放の政治的背景を検証します。
尾張・山崎城主としての出自と若き信長への奉公
佐久間信盛は享禄元年(1528年、大永7年=1527年説もあり)、尾張国愛知郡山崎(現在の名古屋市南区呼続周辺)の山崎城を拠点とする佐久間家に生まれました。佐久間氏はもともと安房国佐久間(千葉県鋸南町)に起こり、尾張へ移って山崎城と御器所(五器所)城(名古屋市昭和区)の二流に分かれた一族で、信盛は山崎城主の系統にあたります。通称は半羽介、右衛門尉(右衛門)、出羽介と称しました。
信盛は当初、織田信長の父・織田信秀に仕え、ついで若き日の信長に附属された譜代の重臣でした。天文20年(1551年、または天文21年)に信秀が死去したのち、織田家中では信長の奇行や素行を危ぶむ声が高まり、筆頭家老の林秀貞(通勝)・林美作守兄弟や柴田勝家らが信長の弟・織田信勝(信行)を擁立して反乱を起こしました。この家督争いの危機において、信盛は一貫して信長方にとどまって忠節を尽くし、弘治2年(1556年)8月の名塚砦の救援および稲生の戦いでは、信長の本隊として柴田勝家・林美作守らの軍勢を撃破する戦功を挙げました。
続く永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでも、信盛は重要な役割を担いました。駿河の今川義元が大軍を率いて尾張国境へ侵攻した際、信盛(および弟・信辰)は今川方の岡部元信が守る鳴海城を包囲する最前線「善照寺砦」の守将を務めていました。5月19日早朝に清洲城を飛び出した信長は、熱田神宮を経てまず信盛が守る善照寺砦に入り、ここで約2000の軍勢を整えて戦況を見極めたのち、豪雨の桶狭間へ奇襲に向かいました。尾張統一から美濃攻略に至るまで、信盛は柴田勝家・丹羽長秀らと並ぶ織田家の中核武将として常に前線に立ち続けました。
南近江・永原城の統治と「退き佐久間」の実績
永禄11年(1568年)9月、信長が足利義昭を奉じて上洛戦を開始すると、信盛は南近江の守護・六角義賢(承禎)・義治父子が拠る観音寺城および箕作城の攻略戦に主力として参加し、上洛の道を切り開きました。
元亀元年(1570年)4月、越前の朝倉義景を攻めた信長が北近江の浅井長政の離反によって挟撃の危機に陥った「金ヶ崎の退き口」では、殿軍(しんがり)を務めた木下秀吉(羽柴秀吉)や明智光秀らを支援して撤退戦を支えました。信盛は合戦において無理な突撃を避け、崩れかけた味方をまとめ上げて整然と退却させる指揮に長けていたことから、織田家中で「退き佐久間(のきさくま)」「引き佐久間」の異名で呼ばれたと伝えられています。
金ヶ崎からの帰還直後の元亀元年5月、信長は岐阜と京都を結ぶ東山道・琵琶湖東南岸の連絡路を確保するため、南近江の要衝・永原城(滋賀県野洲市)を信盛に与えました。翌6月4日、旧領回復を狙う六角義賢・義治父子が南近江の野洲河原(落窪)へ大軍で出撃すると、信盛は柴田勝家とともにこれを迎え撃って撃破し(野洲河原の戦い)、南近江における織田氏の支配を不動のものとしました。信盛は永原城を拠点として南近江の占領地行政や寺社・国衆との取次(交渉窓口)を担い、信長が岐阜と京都を往復する際には永原城が宿所として用いられました。
その後も信盛は、元亀元年6月の姉川の戦い、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちと伊勢長島一向一揆攻め、元亀3年(1572年)12月に武田信玄の遠江侵攻を受けて徳川家康の救援に向かった三方ヶ原の戦い、天正元年(1573年)の浅井・朝倉討滅戦、天正3年(1575年)5月の長篠・設楽原の戦いと8月の越前一向一揆平定など、あらゆる主要戦線に出陣しました。長篠合戦の後には、武田氏との内通嫌疑で誅殺された水野信元の旧領である三河国刈谷を与えられ、尾張・三河・近江に広大な所領を持つ筆頭宿老となりました。
石山本願寺攻囲戦と天王寺砦の主将
信盛の軍事的地位が頂点に達したのは、天正4年(1576年)5月のことでした。それまで大坂の石山本願寺(本願寺顕如)包囲網の主将を務めていた原田(塙)直政が天王寺合戦で本願寺勢の反撃を受けて戦死し、信長自身も救援に駆けつけて負傷する激戦となったのち、信長は天王寺砦(天王寺城)の主将(対本願寺戦の総大将)に佐久間信盛・信栄父子を任命しました。
信盛には、本国の尾張・三河の兵に加え、大和・河内・和泉・摂津・紀伊の5か国に配置された与力・国衆を合わせた計7か国におよぶ軍勢の指揮権が委ねられました。これは柴田勝家の北陸方面軍や明智光秀の丹波方面軍、羽柴秀吉の中国方面軍と並ぶ、あるいは動員範囲においてはそれらを上回る織田政権最大規模の方面軍でした。
当時の石山本願寺は、淀川河口と上町台地北端の地形を活かした巨大な寺内町・城塞都市であり、全国各地の一向宗門徒からの支援と、中国地方の毛利輝元・毛利水軍からの海上補給によって強固な抗戦体制を築いていました。信盛は天王寺砦を本拠として50余りにおよぶ付城(砦)のネットワークを維持し、天正5年(1577年)の紀州雑賀攻めや松永久秀の信貴山城攻めに出陣しつつ、天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いによる海上封鎖を経て、天正8年(1580年)に至るまで約5年間にわたって本願寺包囲網を統括し続けました。
十九ヶ条の折檻状と高野山追放――「無能」評の再検討
天正8年(1580年)3月、正親町天皇の勅命による講和(勅命講和)が成立し、同年4月に顕如が、続いて8月に抗戦派の教如が石山本願寺から退去して、11年におよんだ石山合戦はついに終結しました。
ところが、教如が退去した直後の8月12日、信長は突如として佐久間信盛・信栄父子に対し、全十九ヶ条におよぶ長文の譴責状(折檻状、『信長公記』巻十三所収)を突きつけました。その内容は極めて激しいものでした。
- 父子で5年間も天王寺に在陣し、7か国の与力を与えられながら、一度も武辺の働き(合戦や調略)を見せず、ただ漫然と砦を守っていただけであること。
- その間に明智光秀は丹波で、羽柴秀吉は数か国(播磨・但馬・因幡など)で、柴田勝家は加賀で、池田恒興は花隈城で、それぞれ目覚ましい戦功を挙げて天下に名誉を施していること。
- 嫡男の信栄(正勝)は父の威光を笠に着て茶の湯や遊興にふけり、信盛自身も与力や家臣に恩賞を与えず金銀の蓄財ばかりに努めたこと。
- さらにさかのぼって、元亀3年の三方ヶ原の戦いで平手汎秀を見殺しにして逃げ帰ったことや、尾張時代から信長に対して不遜な言動があったこと。
信長はこれら十九ヶ条を挙げて、「どこへなりとも立ち退いて武篇の道で奉公し直すか、それができなければ高野山へでも上がって頭を剃り隠遁せよ」と命じ、信盛・信栄父子を即座に改易・追放しました。さらにその数日後には、尾張時代以来の筆頭家老であった林秀貞(通勝)と美濃三人衆の安藤守就も、何年も前の過去の罪状を理由に相次いで追放されました。

調査猫の補足
信盛の追放については、十九ヶ条の折檻状に記された「5年間にわたり大軍を預かりながら戦功・戦果を挙げなかった」という問責(『日本大百科全書』奥野高広氏解説・『改訂新版 世界大百科事典』柴辻俊六氏解説)とともに、当時の織田政権全体の動きとあわせて見る視点も大切です。要害堅固な石山本願寺に対しては、天正4年の天王寺合戦(原田直政戦死)ののち付城群と海上封鎖で補給を断つ包囲戦が続けられ、天正8年8月の本願寺退去によって畿内7か国の与力を束ねた包囲軍は大きな区切りを迎えました。同じ天正8年8月には林秀貞や安藤守就ら尾張・美濃の古参重臣も相次いで追放されており、石山合戦の終結を機とした織田家中の編成替えの時期にあたっていたことがうかがえます。
高野山から熊野・十津川へ――晩年と死後の佐久間家
信長から追放を命じられた信盛・信栄父子は、ただちに大坂を退去して紀伊国の高野山へ登り、剃髪・出家しました。信盛は「夢斎定盛(または宗佑)」と号し、わずか数人の従者とともに謹慎生活に入りました。
しかし、信長の追及は高野山にも及び、高野山側が信長の怒りを恐れたこともあって、信盛父子は高野山からも退去を余儀なくされました。父子はさらに南の紀伊国熊野や大和国十津川の山間部へと落ち延び、過酷な流浪生活のなかで天正10年(1582年)1月(異説では天正9年7月24日)、信盛は十津川(または熊野新宮周辺)にて病没しました。享年55でした。そのわずか5か月後の同年6月2日、信長自身も本能寺の変で世を去ることになります。
信盛の死を知った信長(または織田信忠)は、嫡男・佐久間信栄(正勝・不干斎)の帰参を許し、信栄は信忠に仕えました。本能寺の変後、信栄は織田信雄に仕えて蟹江城主となったのち剃髪して「不干斎」と号し、茶人・御伽衆として豊臣秀吉、ついで徳川秀忠に仕えて寛永8年(1631年)まで長命を保ちました。また、信盛の甥にあたる佐久間盛政(玄蕃允)は柴田勝家の猛将として北陸・賤ヶ岳で活躍し、その弟の佐久間安政・勝之兄弟はのちに徳川幕府の大名(信濃飯山藩・信濃長沼藩)として佐久間氏の家名を江戸時代へと残しています。

歴史マニア猫の補足
折檻状では「茶の湯ばかりにふけった」と厳しく叱られた嫡男の佐久間信栄(不干斎)や一族の佐久間将監(実勝・真勝)ですが、実際には千利休や古田織部とも深く交流した当代一流の数寄者(茶人)でした。とくに佐久間将監は京都・大徳寺の寸松庵を建て、古筆の名品『寸松庵色紙』の由来となった人物としても茶道史に名を残しています。戦国乱世の軍団長としては悲劇的な結末を迎えた佐久間家ですが、そこで培われた高い茶の湯の教養が、皮肉にも江戸時代における一族の再興と存続を助けることになったのです。
時代背景と関係人物
| 人物 | 関係・時期 | 影響・補足 |
|---|---|---|
| 織田信秀 | 最初の主君(〜1551年頃) | 信長の父。信盛は信秀の代から織田家に仕え、信長の家督継承を支える宿老として附属された。 |
| 織田信長 | 主君(〜1580年) | 稲生の戦い・桶狭間・上洛戦・永原城・石山本願寺戦と30年近く信盛を筆頭宿老として重用したが、天正8年8月に十九ヶ条の折檻状で追放した。 |
| 佐久間信栄(正勝・不干斎) | 嫡男(1556年〜1631年) | 父とともに天王寺砦で本願寺攻囲にあたり、ともに追放される。父の死後に赦免され、秀吉・徳川秀忠に茶人・御伽衆として仕えた。 |
| 佐久間盛政(玄蕃允) | 甥(信盛の弟・盛次の子、1554年〜1583年) | 柴田勝家の与力・養子格として北陸戦線で活躍。「鬼玄蕃」と称され賤ヶ岳の戦いで中川清秀を討つが、敗れて処刑された。 |
| 柴田勝家 | 織田家同僚・宿老(〜1580年) | 尾張時代には信行方として信盛と戦ったが、帰順後は信盛と並ぶ織田家重臣として野洲河原の戦いなどをともに戦った。 |
| 原田(塙)直政 | 前任の天王寺砦主将(〜1576年) | 天正4年5月の天王寺合戦で本願寺勢に敗れ戦死。その後任として信盛が石山本願寺攻囲戦の総大将に任じられた。 |
| 本願寺顕如・教如 | 石山本願寺門主・対峙相手(1576年〜1580年) | 約5年間にわたり信盛が率いる包囲網と対峙。天正8年の勅命講和により石山本願寺を退去した。 |
年表
年表
※年齢は数え年で表記
尾張国愛知郡山崎の佐久間家に誕生
尾張国愛知郡山崎城を拠点とする佐久間家に生まれる。通称は半羽介、右衛門尉、出羽介。父・織田信秀の代から織田家に仕え、若き信長に附属される。
稲生の戦いなどで信長方として奮戦
信長の弟・織田信勝(信行)と柴田勝家・林秀貞らが挙兵した際、一貫して信長方にとどまり、名塚砦の救援や稲生の戦いで戦功を挙げる。
桶狭間の戦いで善照寺砦の守将を務める
5月19日の桶狭間の戦いにおいて、今川方の鳴海城を抑える最前線・善照寺砦を守備。清洲城から出陣した信長がこの砦に兵を集結させて奇襲へ向かう拠点を支える。
足利義昭奉戴の上洛戦(観音寺城の戦い)に従軍
美濃攻略を経て上洛戦に参陣し、南近江・六角義賢(承禎)の観音寺城・箕作城攻略などで主力として活躍。
金ヶ崎の退き口に従軍、永原城主として南近江を管轄
4月の越前朝倉攻めからの撤退戦(金ヶ崎の退き口)で殿軍を支援。5月には南近江の要衝・永原城を与えられ、野洲河原の戦いで六角軍を撃破し、京都〜岐阜間の連絡路を確保。
三方ヶ原の戦いに徳川家康への援軍大将として参陣
12月、武田信玄の遠江侵攻に対し、信長の命により平手汎秀らとともに徳川家康への援軍として浜松へ派遣されるが、三方ヶ原の戦いで敗退(平手汎秀は戦死)。
長篠の戦い・越前一向一揆攻めに参陣、三河刈谷を拝領
5月の長篠・設楽原の戦い、8月の越前一向一揆鎮圧に従軍。戦後、水野信元の旧領である三河国刈谷を与えられる。
天王寺合戦後、石山本願寺攻囲戦の総大将(天王寺砦主将)となる
5月の天王寺合戦で原田(塙)直政が討死したのち、嫡男・信栄(正勝)とともに天王寺砦に入り、畿内・東海7か国におよぶ与力を統括して石山本願寺包囲網を指揮。
石山本願寺退去直後、信長から十九ヶ条の折檻状を突きつけられ高野山へ追放
8月、勅命講和により本願寺顕如・教如が退去した直後、信長から5年間の攻囲戦の怠慢や過去の罪状を責める十九ヶ条の折檻状を示され、信栄とともに高野山へ追放・改易される。
十津川(または熊野新宮周辺)にて死去
高野山からさらに紀伊・大和の熊野・十津川方面へ退去し、1月(天正9年7月説もあり)に病没。享年55。死後、嫡男・信栄は赦免され帰参。
ゆかりの地

旅猫の案内
山崎城跡(安泰寺)
尾張国愛知郡山崎(現在の名古屋市南区呼続周辺)は、佐久間信盛の一族(山崎佐久間家)が本拠を置いた場所であり、山崎城は信盛が尾張時代から居城とした城です。天正8年(1580年)に信盛が高野山へ追放されるまで佐久間氏の拠点として機能し、近隣の熊野三社も永禄年間に信盛が城の鎮守として祀ったと伝えられています。
訪れる価値・見どころ
天正8年の廃城後、城跡には桜村の宝珠庵が移されて「宝珠山安泰寺」となったため、城郭当時の建物や石垣は残っていません。しかし、笠寺台地北端の高台に位置する境内には名古屋市教育委員会による「山崎城跡」の案内板が立ち、城の西側堀跡を利用して敷設されたと伝わる名鉄名古屋本線の切り通し地形などに、往時の要害性をうかがうことができます。
桶狭間古戦場伝説地
永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いにおいて、佐久間信盛(および弟・信辰)は今川方の鳴海城を抑える最前線「善照寺砦」の守将を務めました。清洲城を出陣した織田信長は、まず信盛が守る善照寺砦に入って軍勢を集結させ、そこから豪雨の桶狭間(田楽狭間)に置かれた今川義元本陣への奇襲へと向かいました。
訪れる価値・見どころ
国指定史跡「桶狭間古戦場伝説地」には、江戸時代後期の明和8年(1771年)に建てられた「七石表」や文化6年(1809年)の「桶狭弔古碑」、明治期の墓碑など後世の供養・顕彰碑が保存されています。また、ここから北西約3.5kmの名古屋市緑区鳴海町にある「善照寺砦公園」とあわせて巡ることで、信盛が担った前線守備と桶狭間本戦の位置関係を具体的にたどることができます。
永原城跡(国史跡・永原御殿跡)
永禄11年(1568年)の上洛戦後、織田信長から南近江の支配と岐阜〜京都間の連絡路(東山道筋)の確保を命じられた佐久間信盛が、元亀元年(1570年)から居城・管轄拠点とした城です。信盛はこの城を拠点に六角義賢(承禎)の反攻を野洲河原の戦いで撃破し、信長自身も上洛往復時の宿所として利用しました。
訪れる価値・見どころ
中世の永原城跡は、関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)頃に徳川家康によって将軍上洛用の宿泊施設「永原御殿(御茶屋御殿)」として改修されました。現在、国指定史跡として地表に残る本丸の土塁・堀跡・石垣跡や、近隣の浄専寺に移築現存する四脚門は主に江戸時代初期の徳川将軍家「永原御殿」として整備された際の遺構ですが、琵琶湖東南岸の交通要衝を押さえる城地の構造を今に伝えています。
石山本願寺推定地の碑
天正4年(1576年)5月の天王寺合戦後、天正8年(1580年)8月の開城・退去に至るまで、佐久間信盛・信栄父子が天王寺砦(天王寺城)の主将として7か国の与力を率い、約5年間にわたって攻囲戦を指揮した「石山本願寺(大坂本願寺)」の推定地です。本願寺退去直後、信長がこの5年間の攻囲戦における「無策・怠慢」を問責する十九ヶ条の折檻状を突きつけたことで、信盛は追放されることになりました。
訪れる価値・見どころ
石山本願寺は天正8年8月の退去時に焼失し、その跡地の上に豊臣秀吉の大坂城、さらに徳川幕府による大坂城再築が行われたため、現在大阪城公園の地表に見られる石垣や堀はすべて徳川期大坂城の遺構であり、本願寺の遺構は地下深くに埋没しています。大阪城二の丸(大阪市立修道館西側)には後世に建てられた「石山本願寺推定地」の顕彰碑・解説板と、「蓮如井」の井筒と伝わる石材が見学できます。
高野山 金剛峯寺(柳の間)
天正8年(1580年)8月、織田信長から十九ヶ条の折檻状を突きつけられて改易・追放された佐久間信盛・信栄父子が、ただちに身を寄せて剃髪・謹慎した霊場です。信盛はここで出家して「夢斎定盛(宗佑)」と号しましたが、さらに信長の追及により高野山からも退去を余儀なくされ、紀伊熊野・大和十津川方面へ落ちて生涯を閉じました。
訪れる価値・見どころ
現在見られる総本山金剛峯寺(旧青巌寺・興山寺が明治2年に合併)の主殿は文久3年(1863年)に再建された江戸時代末期の建造物であり、信盛が身を寄せた天正8年当時の建物ではありませんが、主殿の大広間や国内最大級の石庭「蟠龍庭」、さらに奥之院参道に立ち並ぶ織田信長をはじめとする戦国大名たちの供養塔群を通じて、戦国時代の敗者や追放者を受け入れた高野山の歴史的空間を体感できます。
まとめ
佐久間信盛の55年の生涯は、織田信長が尾張の一領主から天下人へと駆け上がる約30年の歳月と完全に重なっていました。弟・信勝の反乱から桶狭間の戦い、上洛戦、南近江・永原城での交通路支配、「退き佐久間」と称された堅実な撤退・支援戦術、そして7か国の与力を束ねた石山本願寺包囲網の維持に至るまで、信盛は織田政権の屋台骨を支え続けた筆頭宿老でした。天正8年(1580年)の十九ヶ条の折檻状と高野山追放は、石山合戦の終結に伴う畿内軍団の解体・再編と尾張古参宿老の世代交代という政治的転換のなかで起きた出来事であり、その足跡をたどることは、織田政権の構造変化そのものを読み解くことにつながります。
関連リンク
参考資料・情報源
- コトバンク「佐久間信盛」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』奥野高広/『改訂新版 世界大百科事典』柴辻俊六/『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』)
- 山崎城跡(安泰寺)|名古屋市南区公式ウェブサイト
- 緑区史跡散策路・鳴海宿コースの紹介(善照寺砦跡)|名古屋市緑区公式ウェブサイト
- 桶狭間古戦場伝説地|愛知県公式観光サイト Aichi Now
- 近江にあった永原(ながはら)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館提供)|国立国会図書館レファレンス協同データベース
- 永原御殿跡及び伊庭御殿跡|文化庁 国指定文化財等データベース
- 豊臣石垣コラム Vol.58 修道館西に置かれた井筒(石山本願寺推定地)|大阪城天守閣公式ホームページ
- 高野山真言宗 総本山金剛峯寺 公式ホームページ


