
斎藤道三|父子二代の美濃国盗りと稲葉山城下経営、義龍との対立

基本情報
| 氏名・名称 | 斎藤道三(利政)(さいとうどうさん) |
|---|---|
| 生年・没年 | 生年不詳(明応3年[1494年]説・永正元年[1504年]説あり) - 弘治2年(1556年) |
| 出身地 | 山城国乙訓郡西岡(伝承、美濃国出自説などあり) |
| 主な居城・拠点 | 稲葉山城(現・岐阜城)および山麓居館 |
| 種類 | 人物 (武将・偉人など) |
| 時代 | 戦国時代 |
| 主な地域 | 岐阜県、愛知県 |
| 関連タグ | #斎藤道三#斎藤義龍#長井新左衛門尉#稲葉山城#岐阜城#土岐頼芸#長良川の戦い |
はじめに
斎藤道三(生年不詳〜1556)は、戦国時代の美濃国(現在の岐阜県南部)において守護・土岐氏に代わって実権を握り、稲葉山城と井口(のちの岐阜)の城下町を整備した戦国大名です(※本記事の月日は原則として当時の旧暦で表記しています)。道三といえば、京都の妙覚寺の僧侶から還俗して山崎屋の油売りとなり、巧みな弁舌と商才、そして数々の謀略によって一代で美濃一国の主へと成り上がった「美濃の蝮(まむし)」「下剋上の体現者」という物語が広く知られてきました。
しかし、この劇的な「一代による国盗り物語」は、織田信長の旧臣・太田牛一が著した『信長公記』や江戸時代の『美濃国諸旧記』などによって形づくられたものでした。『六角承禎条書』や『岐阜市史』などの研究により、現在では「京都から美濃へ入って地盤を築いた父・長井新左衛門尉」と「その跡を継いで守護・土岐氏を追放した子・長井新九郎規秀(斎藤利政、のちの道三)」の父子二代によって美濃支配が達成されたことが明らかになっています。本記事では、父子二代にわたる権力形成の実態、出自や改名の史料上の確度、稲葉山城下の経営と織田家との同盟、そして嫡男・斎藤義龍との対立による最期までをたどります。
「父子二代による国盗り」と出自・改名の実態
長らく通説とされてきた「一代での国盗り」が見直される根拠となったのは、近江国の戦国大名・六角義賢(承禎)が記した『六角承禎条書』や美濃国内の同時代文書の研究(『岐阜市史』など)でした。これにより、『信長公記』や『美濃国諸旧記』が道三一人の事績として描いてきた前半生と後半生は、実際には父子二代にわたる事績であったことが判明しています。
具体的には、山城国乙訓郡西岡の生まれと伝わり、京都の日蓮宗寺院・妙覚寺の僧(法蓮房)から還俗して松波庄五郎・西村正利と称し、美濃へ下って小守護代・長井長弘に仕え、頭角を現して「長井新左衛門尉」と名乗った人物は、道三の父(初代)でした。父・新左衛門尉は京都の妙覚寺と美濃の末寺・常在寺(斎藤妙椿が創建し、長井氏の縁者が住持を務めた寺)のつながりを背景に美濃で勢力を築き、守護・土岐政房の次男である土岐頼芸を擁立して実権を握ったのち、天文2年(1533年)に死去しました。
その跡を継いだ2代目こそが、のちに道三と号する人物です。道三の生年については、明応3年(1494年)生まれ説や永正元年(1504年)生まれ説があり、百科事典や研究書でも生年不詳(?〜1556年)として扱われることが少なくありません。
父・新左衛門尉が没した天文2年(1533年)、2代目は家督を継いで「長井新九郎規秀(のりひで)」と名乗り、天文4年(1535年)に土岐頼芸が守護となると、その重臣として権勢を振るいました。さらに天文7年(1538年)には、当時断絶していた美濃守護代・斎藤氏の名跡を継いで「斎藤新九郎利政(としまさ、のちに山城守)」と改めました。そして晩年の天文23年(1554年)、嫡男・義龍に家督を譲って出家した際に「道三」と号しました。すなわち、彼の人生の大半は「長井規秀」および「斎藤利政」として過ごされたものでした。

調査猫の補足
『信長公記』や『美濃国諸旧記』には、油売りだった山崎屋(松波庄五郎)が「一文銭の穴から油を注ぎ、もしこぼれたらお代はいただかない」という見事な技で評判を集めたという有名な逸話が載っています。父・長井新左衛門尉が京都と美濃を結ぶ寺院・商業ネットワークに関わっていたことはうかがえますが、一文銭のパフォーマンス自体は、成り上がりの劇的さを強調する後世の物語的伝承として史実と区別して読む必要がありますね。
土岐頼芸との抗争と稲葉山城・井口城下町の整備
長井新左衛門尉・規秀(道三)父子が美濃で権力を拡大するうえで後ろ盾としたのが、美濃守護・土岐政房の次男である土岐頼芸(よりのり)でした。永正14年(1517年)以降、土岐家では政房の長男・土岐政頼(頼武)と次男・頼芸の間で守護職争いが続いており、新左衛門尉は頼芸を擁立して大永5年(1525年)および享禄3年(1530年)の合戦で政頼を越前へ追い落とし、頼芸を美濃守護の座に就けました。
天文4年(1535年)、長良川の大洪水によって枝広(岐阜市長良)にあった守護所が被災すると、土岐頼芸は北方の山県郡大桑へ拠点を移し、古城山(標高407.5メートル)に大桑城と城下町を築きました。一方、守護代・斎藤氏の名跡を継いだ斎藤利政(道三)は、天文8年(1539年)から稲葉山(金華山)の城郭修築と、山麓の井口(いのくち、現在の岐阜市街地)の都市整備に着手します。
江戸時代初期の岐阜の豪商・中島両以が記した『中島両以記文』(岐阜市指定重要文化財)の記録や発掘調査によると、道三時代の稲葉山城は、後世(織田信長期以降や昭和の再建)のような高石垣や瓦葺きの天守がそびえる姿ではなく、険しい岩山の尾根に土塁や堀切・砦を配した詰城であり、政治と日常生活の中心は金華山西麓(現在の岐阜公園付近)に築かれた居館にありました。道三は山腹にあった伊奈波神社を現在の場所へ遷座し、城下町の周囲に土塁と堀による「総構え」を巡らせ、七曲通に井ノ口村の百姓を集めて町(現在の本町)をつくり、百曲通には大桑の町人を移住させて商業地区(現在の上大久和町・中大桑町など)を形成して、井口を美濃の中心的な経済都市へと発展させました。
やがて美濃国内の主導権をめぐって主君・土岐頼芸と道三の対立が表面化すると、天文11年(1542年)〜12年(1543年)にかけて道三は大桑城を攻め、頼芸を尾張へと退去させました。頼芸を支援する尾張の織田信秀と越前の朝倉氏が美濃へ侵攻すると、天文13年(1544年)および天文16年(1547年)、道三は稲葉山城下の加納口まで迫った織田信秀軍を撃退しました(加納口の戦い)。一度は和議によって頼芸の帰国を認めた道三でしたが、天文17年(1548年)頃に織田信秀と和睦して後ろ盾を失わせたうえで、天文21年(1552年、天文19年説もあり)には再び大桑城の土岐頼芸を美濃国外へ追放し、美濃一国の実権を掌握しました。
織田信長との婚姻同盟と正徳寺(聖徳寺)の会見
尾張の織田信秀と和睦した道三は、娘の帰蝶(濃姫)を信秀の嫡男・織田信長のもとへ嫁がせ、織田家との同盟関係を結びました。
父・織田信秀の死去(天文21年[1552年]説、天文20年[1551年]説がある)により若き信長が家督を継ぐと、天文22年(1553年)4月下旬、道三は尾張国富田の正徳寺(聖徳寺、現在の愛知県一宮市富田付近)において婿の信長と会見しました。『信長公記』首巻にはこの会見の逸話が詳しく記されています。道三は周囲から「大うつけ(たわけ)」と噂される信長の人物を確かめようと、あらかじめ寺の周囲に礼装の宿老たちを並べ、自らは町外れの小屋に隠れて信長の行列を観察しました。すると信長は茶筅髷に半袴、腰には火打袋や瓢箪をぶら下げた異様な風体で現れ、長柄槍五百本と弓・鉄砲五百挺を備えた部隊を率いていました。
いざ正徳寺に入ると、信長は屏風の陰で髪を結い直し、端正な礼装姿へと着替えて道三の前に進み出ました。共に湯漬けの膳と盃を交わして会見を終え、美濃衆よりも長い槍を携えて引き揚げる尾張衆を見送った道三は、帰路に家臣・猪子兵助から「やはり信長はたわけでした」と声をかけられると、「そうであれば無念なことだ。わしの子どもたちは、いずれあのたわけの門前に馬をつなぐ(家臣として従う)ことになるだろう」と語ったと伝えられています。『信長公記』による物語的な演出は含まれるものの、道三と信長の同盟関係が道三の最期まで維持されたことは、長良川の戦いにおける信長の救援出兵からも確認できます。

歴史マニア猫の補足
本記事のヘッダーイラストでは、道三が山麓の居館の縁側で家臣と向き合い、背後の稲葉山(金華山)には後世の天守や高石垣を描かず、自然の山容として表現しています。道三の時代、山上の城は有事の詰城であり、普段の政務や来客との対面は山麓の居館で行われていました。常在寺に伝わる重要文化財「絹本著色斎藤道三像」(岐阜市歴史博物館寄託)でも、道三は端正な肩衣・袴姿で扇を手にした武将として描かれており、城下町を整えた統治者としての姿を伝えています。
斎藤義龍との対立と長良川の戦い
美濃の実権を握った道三でしたが、守護・土岐頼芸の追放を契機に美濃国内の国衆(在地領主層)との矛盾・対立が深まり、晩年には嫡男・斎藤義龍(新九郎・范可)との間に深刻な確執が生じました。天文23年(1554年)、道三は国衆層の支持を集めた嫡男・義龍に家督を譲って引退を余儀なくされ、剃髪して「道三」と号しました。
父子が対立に至った理由について、後世の俗説では「土岐頼芸の愛妾・三芳野(深芳野)が頼芸の子を宿したまま道三に嫁いで生んだ子が義龍であり、それに起因して道三・義龍が不和になった」という落胤(らくいん)説が語られてきました。しかし、研究上では、道三が義龍を疎んじて廃嫡し、弟の孫四郎や喜平次を立てようとしたことや、道三の支配に反発する美濃国衆が義龍を擁立して道三を排除しようとしたこと(勝俣鎮夫氏・谷口研語氏らの解説)が実際の政治的背景として指摘されています。
弘治元年(1555年)冬(11月)、義龍は機先を制して弟の孫四郎・喜平次を殺害し、道三に対して兵を挙げました。翌弘治2年(1556年)4月20日、道三は長良川において義龍軍と激突しましたが、美濃家中の多数の支持を得た義龍軍に敗れ、小牧源太(道家)らに討ち取られて戦死しました(長良川の戦い)。婿の織田信長も道三を救援するため尾張から出兵しましたが、合戦には間に合わず撤退しました。なお、この合戦に際して道三が「美濃国を娘婿の織田信長に譲る」旨を記した弘治2年(1556年)の『斎藤道三遺言状』(いわゆる美濃国譲状、岡本家蔵・大阪城天守閣展示ほか)が伝わっており、のちに信長が美濃へ侵攻する大義名分とされたともいわれます。
時代背景と関係人物
| 人物 | 関係・時期 | 影響・補足 |
|---|---|---|
| 長井新左衛門尉 | 父・初代(〜1533年) | 京都・妙覚寺の僧から還俗して美濃へ下り、長井氏の重臣となって土岐頼芸を擁立。父子二代による美濃国盗りの基盤を築く。 |
| 土岐頼芸 | 美濃守護・旧主(1502年〜1582年) | 長井父子の支援で守護の座に就くも、のちに道三と対立し大桑城を追われて美濃国外へ追放される。 |
| 帰蝶(濃姫) | 娘・織田信長正室(生没年不詳) | 道三の娘。尾張の織田信長に嫁ぎ、斎藤・織田両家の同盟の象徴となる。 |
| 織田信長 | 婿・同盟相手(1534年〜1582年) | 正徳寺で道三と会見し、長良川の戦いでは救援に出兵。道三が美濃を譲る旨の遺言状を残したと伝わり、のち永禄10年に美濃を平定。 |
| 斎藤義龍 | 嫡男・後継当主(1527年〜1561年) | 天文23年(1554年)に家督を継ぐ。美濃国衆の支持を背景に父・道三と対立し、長良川の戦いで道三を討って美濃を統治。 |
| 明智光秀 | 美濃明智氏出身(生年不詳〜1582年) | 長良川の戦いで道三方に味方したため義龍に明智城を攻められ越前へ亡命したと伝わるが、前半生の経歴には不明点が多い。 |
年表
年表
※年齢は数え年で表記
長井新左衛門尉の子として誕生(生年には永正元年[1504年]説もあり)
のちの斎藤道三(長井新九郎規秀・斎藤利政)が誕生。『信長公記』等では僧侶・油商から美濃へ下った人物を道三本人とするが、『六角承禎条書』や『岐阜市史』等の研究により、京都から美濃へ入り台頭した父(長井新左衛門尉)と子(規秀=利政=道三)の父子二代であったことが明らかにされている。
嫡男・義龍(范可)が誕生
のちに家督を継ぎ、道三と長良川で戦うことになる嫡男・斎藤義龍が生まれる。当時、父・長井新左衛門尉らは美濃守護・土岐政房の次男である土岐頼芸を擁立して勢力を拡大。
父・長井新左衛門尉の死去に伴い家督を継承し「長井新九郎規秀」と名乗る
父・新左衛門尉の没後、家督を継いで「長井新九郎規秀(のりひで)」と名乗り、守護・土岐頼芸のもとで重臣として勢力を伸ばす。
守護代・斎藤氏の名跡を継ぎ「斎藤新九郎利政」と改名、稲葉山城を整備
天文7年(1538年)、断絶していた美濃守護代・斎藤氏の名跡を継承して「斎藤新九郎利政」と改める。翌天文8年(1539年)より稲葉山城と山麓の井口(いのくち)城下町の整備を進める。
守護・土岐頼芸の大桑城を攻め、加納口で織田信秀軍を撃退
美濃守護・土岐頼芸との対立が表面化して大桑城を攻略し、頼芸を一時尾張へ奔らせる。天文13年(1544年)および天文16年(1547年)には、頼芸を支援して稲葉山城下(加納口)へ侵攻した尾張の織田信秀軍を撃退。
織田信秀と和睦し、娘(帰蝶・濃姫)を織田信長へ嫁がせる
尾張の織田信秀と和睦を結び、娘(帰蝶・濃姫)を信秀の嫡男・織田信長に嫁がせて同盟関係を構築。
土岐頼芸を再び美濃国外へ追放し、美濃一国の実権を掌握
大桑城の土岐頼芸を再び追放し(天文19年説もあり)、守護・土岐氏に代わって美濃国の実質的な支配者となる。
尾張・富田の正徳寺(聖徳寺)で婿・織田信長と会見
4月下旬、尾張国富田の正徳寺(聖徳寺)で織田信長と会見。『信長公記』には、道三が信長の力量を見抜いて「わが子たちはあのたわけの門前に馬をつなぐことになるだろう」と評した逸話が記される。
嫡男・義龍に家督を譲り、出家して「道三」と号す
美濃国衆の支持を集めた嫡男・斎藤義龍に家督を譲って引退し、剃髪して「道三」と号す。その後、義龍の廃嫡や弟たち(孫四郎・喜平次)の処遇をめぐり父子の対立が深まる。
義龍が弟2人を殺害して挙兵
冬(11月)、義龍が弟の孫四郎・喜平次を殺害し、道三に対して兵を挙げる。
長良川の戦いで義龍軍に敗れ討死
4月20日、長良川で義龍軍と戦うも敗れ、小牧源太らに討ち取られる。合戦に際し、美濃国を婿・織田信長に譲る旨を記した『斎藤道三遺言状』(美濃国譲状)を残したと伝わる。
ゆかりの地

旅猫の案内
岐阜城
斎藤道三が天文8年(1539年)頃から本拠として整備した「稲葉山城」の跡です。道三の時代は険しい金華山の地形を活かした土塁・堀切と砦を山上に構える詰城であり、山麓(現在の岐阜公園付近)に日常の政務と生活を行う居館を置き、伊奈波神社を現在地へ遷座して井口(いのくち)の城下町と総構えを整備しました。
訪れる価値・見どころ
標高約329mの金華山一帯が国指定史跡「岐阜城跡」です。山頂に建つ現在の復興天守閣は昭和31年(1956年)に再建された鉄筋コンクリート造の建物であり、山頂周辺に残る石垣も主に織田信長による岐阜城改修期以降の遺構です。復興天守閣・資料館は2026年5月19日から2027年10月末(予定)まで改修工事のため休館中ですが、ぎふ金華山ロープウェーで山頂展望台へ上がり、道三と義龍が戦った長良川や濃尾平野を一望することができます。
常在寺
宝徳2年(1450年)に美濃守護代・斎藤妙椿が創建した日蓮宗寺院(京都・妙覚寺末寺)で、長井新左衛門尉・斎藤道三・義龍・龍興へと続く斎藤家の菩提寺です。道三は寺領を寄進して保護し、没年月日(弘治2年4月20日)と「過去報州太守道三居士」の墨書銘を持つ国指定重要文化財「絹本著色斎藤道三像」および「斎藤義龍像」が当寺に伝わりました。
訪れる価値・見どころ
金華山の西麓・梶川町に位置します。現在の本堂などの建物は後世に再建されたものですが、本堂では重要文化財「斎藤道三像」「斎藤義龍像」の複製画(実物は岐阜市歴史博物館に寄託)や斎藤家ゆかりの寺宝、境内の斎藤道三公供養碑・五輪塔を見学できます(※岐阜城や岐阜市歴史博物館とは別施設の寺院です)。
岐阜市歴史博物館
道三と信長の居館跡に隣接する岐阜公園内に位置し、常在寺所蔵の国指定重要文化財「絹本著色斎藤道三像」「絹本著色斎藤義龍像」の実物を寄託保管している博物館です。また、道三が稲葉山城と井口の城下町(総構えや七曲通・百曲通)を整備した記録を伝える岐阜市指定重要文化財『中島両以記文』も同館に収蔵されています。
訪れる価値・見どころ
昭和60年(1985年)に開館した博物館で、総合展示室では戦国時代の美濃と岐阜城下町の発展が詳しく紹介され、道三の都市計画や長良川の戦い、信長による岐阜改称までの歴史の流れを実物資料や復元模型で学ぶことができます。
道三塚
弘治2年(1556年)4月20日の長良川の戦いで嫡男・義龍に敗れて討死した斎藤道三の遺体を埋葬した供養塚(岐阜市指定史跡)です。合戦直後は旧臣の小牧源太(道家)らによって崇福寺の西南(現在の岐阜メモリアルセンター付近)に葬られたと伝わりますが、長良川の洪水でたびたび浸水したため、江戸時代後期の天保8年(1837年)に常在寺の住職らが現在の長良福光へ改葬しました。
訪れる価値・見どころ
現在見られる塚と「道三塚」の石碑は天保8年(1837年)の改葬以降に整備されたもので、長良川北岸の住宅街の一角(崇福寺北側)に位置しています。合戦の舞台となった長良川周辺の地形とあわせて、道三最期の地をしのぶことができます。
大桑城跡
天文4年(1535年)の長良川大洪水で枝広館が被災したのち、美濃守護・土岐頼芸が本拠を移して整備した守護所・山城です。当初は頼芸を擁立していた道三ですが、のちに主君・頼芸と対立して天文11年(1542年)〜12年(1543年)頃から大桑城を攻め、頼芸を美濃国外へ追放して国盗りを完成させました。
訪れる価値・見どころ
令和8年(2026年)2月に国史跡に指定された山県市の古城山(標高407.5m)一帯の遺跡です。山頂に建つミニチュア模擬天守は昭和63年(1988年)に造られた展望施設ですが、周囲の曲輪群・石垣・岩門や、山麓の城下町入口を防御した「四国堀」などは土岐頼芸・斎藤道三の抗争期の山城・惣構え遺構をとどめており、麓には当時の戦死者を弔うと伝わる「六万墓」の石碑も残ります。
まとめ
斎藤道三の生涯は、一介の油売りによる一代限りの奇想天外な謀略劇ではなく、京都と美濃を結ぶ寺院・商業ネットワークを背景に父・長井新左衛門尉が築いた政治的基盤を受け継ぎ、長井氏・斎藤氏の名跡継承と稲葉山城下町(井口)の都市開発によって守護・土岐氏に代わって実権を握った、父子二代にわたる戦国大名化の歩みでした。最期は美濃国内の国衆との関係や後継問題をめぐって嫡男・義龍に討たれたものの、道三が整備した稲葉山城と井口の城下町は、のちに美濃を平定した織田信長によって「岐阜」と改称され、さらなる城郭・都市経営へと引き継がれていきました。
関連リンク
参考資料・情報源
- 岐阜城の歴代城主|岐阜市公式ホームページ
- 絹本著色斎藤道三像 斎藤義竜像(重要文化財)|岐阜県公式ホームページ
- [市]道三塚|岐阜市公式ホームページ
- 岐阜市重要文化財の新指定について(中島両以記文附中島家一石五輪塔群)|岐阜市公式ホームページ
- 国史跡 大桑城跡について|山県市公式ホームページ
- 大桑城跡が国史跡に指定されました|山県市公式ホームページ
- 聖徳寺跡(美濃路散策)|一宮市公式ホームページ(一宮市尾西歴史民俗資料館)
- 常在寺|岐阜市観光ナビ(公益財団法人岐阜観光コンベンション協会)
- 岡豊風日 第21号(大阪城天守閣名品展「秀吉と桃山文化」斎藤道三遺言状解説)|高知県立歴史民俗資料館
- 斎藤道三(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典 改訂新版ほか)|コトバンク
- 斎藤義龍(日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典ほか)|コトバンク


