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大坂城|石山本願寺から豊臣・徳川の城、近代の軍用地へ

公開: 2026-10-08
大阪
大坂城|石山本願寺から豊臣・徳川の城、近代の軍用地へのイメージ

基本情報

名称大坂城(大阪城)
所在地大阪府大阪市中央区大阪城
起源・主要な転換蓮如による大坂御坊(1496年)/豊臣秀吉の築城(1583年)
歴代の主な利用者本願寺、豊臣氏、徳川将軍家、大日本帝国陸軍
現状大阪城公園(国の特別史跡)、大阪城天守閣(登録有形文化財・博物館)
種類史跡
時代室町時代 / 安土桃山時代 / 江戸時代 / 近現代
主な地域大阪
関連タグ
#大阪府#豊臣秀吉#徳川幕府#石山本願寺#城郭

上町台地と、水陸の交通上この土地が持った意味

現在私たちが目にする「大阪城(大坂城)」は、巨大な石垣と水堀に囲まれた平城(ひらじろ)のように見えますが、そのルーツは地形に深く関わっています。 大坂城が位置しているのは、大阪平野を南北に貫く「上町台地(うえまちだいち)」の北端です。古代から中世にかけて、台地のすぐ西側には海(難波津・瀬戸内海)が迫り、北側には淀川や大和川の豊かな水系が流れていました。 つまりこの地は、水上交通の要衝を抑えつつ、台地という天然の高台に陣取る要害の地だったのです。

蓮如の大坂御坊から石山本願寺・寺内町への発展

この地形的優位性に目をつけたのが、浄土真宗の僧・蓮如(れんにょ)です。1496年(明応5年)、蓮如はこの地に「大坂御坊」という小さな道場を建立しました。 その後、1532年(天文元年)に教団の本拠であった山科本願寺が焼き討ちによって焼失すると、拠点は大坂御坊へと移されました。これが巨大な宗教都市**「石山本願寺」**へと発展し、周囲には信徒たちが集まって土塁や堀を備えた「寺内町(じないまち)」が形成されました。

石山合戦と本願寺の退去

戦国時代末期になると、天下統一を目指す織田信長が大坂の地を重要視し、明け渡しを要求します。しかし石山本願寺はこれを拒否し、1570年(元亀元年)から**「石山合戦」**と呼ばれる激しい戦争が勃発しました。 本願寺は毛利水軍や雑賀衆などの支援を受け、信長を大いに苦しめましたが、10年にも及ぶ凄惨な包囲戦の末、1580年(天正8年)に和睦を受け入れ、大坂から退去しました。その直後、謎の火災によって石山本願寺とその寺内町は灰燼に帰しました。

豊臣秀吉の築城、政権の拠点、大坂の陣による焼亡

信長の死後、政権を握った豊臣秀吉は、石山本願寺の跡地を自らの拠点と定めます。1583年(天正11年)、秀吉は総力を挙げて大坂城の築城を開始しました。 黒塗りの下見板張りに黄金の装飾が輝く壮麗な天守がそびえ、城下町は運河が開削されて「水都」としての基盤が作られました。

しかし、秀吉の死後に徳川家康との対立が深まり、1614年の「大坂冬の陣」、続く1615年の「大坂夏の陣」によって、豊臣家は滅亡します。この戦いにより、秀吉が築いた大坂城も焼け落ちてしまいました。

徳川幕府による再築と、豊臣の城との違い

天下を平定した江戸幕府は、1620年(元和6年)から2代将軍・秀忠の命により、西国大名たちを動員した「天下普請」として大坂城の再築を開始します。

調査猫

調査猫の補足

現在の大阪城で地表に見えている石垣や水堀は、すべて「徳川時代」のものにゃ。幕府は、焼け残った豊臣大坂城の石垣を上から数メートルの厚い土で埋め立てて、その上に全く新しい城を築いたのにゃ。

徳川期の大坂城は、豊臣期よりも城域全体が高く嵩上げされ、大名たちが威信をかけて運んだ巨大な石(蛸石など)が各所に積まれました。 しかし徳川期の天守は、1665年(寛文5年)に落雷で焼失してしまい、以降、江戸時代を通じて大坂城に天守が再建されることはありませんでした。

時代背景と関係人物

本願寺時代から近代にかけて、大坂城に関わった主な勢力と人物は以下の通りです。

人物・勢力関係・時期影響・補足
蓮如・顕如(浄土真宗)1496年〜1580年大坂御坊を開き、強大な「石山本願寺」へと発展させた。顕如の代に信長と衝突。
織田信長1570年〜1580年石山合戦で本願寺と10年にわたり激戦を繰り広げ、この地から退去させた。
豊臣秀吉・秀頼1583年〜1615年跡地に豪壮な「豊臣期大坂城」を築く。大坂の陣で城と共に滅亡した。
徳川幕府(秀忠など)1620年〜1868年豊臣の遺構を地下に埋め立て、その上に新たな石垣と天守を持つ「徳川期大坂城」を再築した。
関一市長・市民・陸軍1931年〜陸軍施設の拡充と並行し、市民の寄付によって天守閣が復興され、周辺が公園として整備された。

幕末・明治維新の変化、陸軍の利用と大阪砲兵工廠

幕末の1867年(慶応3年)、15代将軍徳川慶喜は大坂城にて各国の公使に大政奉還を伝達しました。しかし翌1868年、鳥羽・伏見の戦いで敗れた慶喜が城を脱出すると、新政府軍への引き渡しに伴う混乱で大半の建物が焼失しました。

歴史マニア猫

歴史マニア猫の補足

明治時代に入ると、大坂城の広大で堅固な敷地は陸軍の管轄になったにゃ。特に城の東側一帯には「大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)」という巨大な兵器工場が造られ、長らく一般市民が近づけない軍事拠点となっていたのにゃ。

市民の寄付による天守復興、戦災、戦後の公園整備

「大阪に再び天守閣を」という市民の熱い願いにより、1931年(昭和6年)、当時の関一(せき はじめ)大阪市長の呼びかけで集まった市民の寄付金をもとに、現在の**「第三代 大阪城天守閣」**が完成しました。同時に本丸周辺は大阪城公園として開園し、軍事施設と公園が併存する時代を迎えます。

旅猫

旅猫の案内

1931年の復興天守は、外観は屏風絵に残る「豊臣時代」のデザインを採用しつつ、建っている天守台は「徳川時代」のものという歴史の重なり合いを楽しめるのが特徴にゃ。さらに、2025年4月からは地下に眠る「豊臣時代の石垣」も公開されるようににゃったんだにゃ!

しかし1945年(昭和20年)8月14日の大阪大空襲で、城内の陸軍施設は標的となり、兵器工場は壊滅、江戸時代から残っていた櫓なども焼失してしまいます。奇跡的に天守閣は致命的な被害を免れました。 戦後、残された軍事施設は撤去され、一帯は本格的な史跡公園として整備が進められて現在に至ります。

年表

1496年(明応5年)

大坂御坊の建立

浄土真宗の蓮如が上町台地に大坂御坊を建立する。

1532年(天文元年)

石山本願寺への発展

山科本願寺が焼き討ちによって焼失し、教団の本拠が大坂御坊へ移され「石山本願寺」として強大な宗教都市となる。

1570年(元亀元年)

石山合戦の開戦(〜1580年)

織田信長と石山本願寺との間で戦いが始まり、10年にわたる抗争の末、本願寺は退去する。

1583年(天正11年)

豊臣大坂城の築城開始

豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に天下人の拠点として巨大な城を築き始める。

1615年(慶長20年)

大坂夏の陣

徳川家康の軍勢により大坂城は落城し、豊臣家は滅亡。城の建物の多くが焼失する。

1620年(元和6年)

徳川大坂城の再築開始(〜1629年)

江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の命により、豊臣の城を土で埋め立て、新たな大坂城が築かれる。

1665年(寛文5年)

徳川期天守の焼失

落雷により徳川期に建てられた天守が焼失。以降、江戸時代を通じて再建されることはなかった。

1867年(慶応3年)

大政奉還

15代将軍徳川慶喜が大坂城にて各国の公使に大政奉還を伝達する。

1868年(明治元年)

城の接収と焼失

鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜が城を脱出。新政府軍への引き渡しに伴う混乱で大半の建物が焼失し、後に陸軍用地となる。

1870年(明治3年)

大阪砲兵工廠の設立

城の東側を中心に陸軍の兵器工場が設けられる。

1931年(昭和6年)

大阪城天守閣の復興と公園化

関一大阪市長の呼びかけによる市民の寄付で、現在の天守閣(第三代天守)が完成。同時に本丸周辺が大阪城公園として開園する。

1945年(昭和20年)

大阪大空襲

8月14日の大規模な空襲により大阪砲兵工廠が壊滅。城内の櫓なども焼失したが、天守は被害を免れる。

1948年(昭和23年)以降

戦後の公園整備

軍用地が撤去され、城域全体が本格的な史跡公園として整備されて現在に至る。

歴史をたどる見どころ

SPOT 1

大阪城天守閣

訪れる価値・見どころ

1931年に市民の寄付で建てられた復興天守。外観は豊臣期をモデルとしているが、石垣は徳川期のものというハイブリッド構造。内部は歴史博物館。

地形・立地からの視点

徳川期に造成された高い天守台の上

見学目安: 編集部目安:約60分〜90分
営業: 9:00〜18:00(最終入館17:30)
休業: 12月28日〜1月1日
料金: 大人1,200円、高校生・大学生600円(要証明)、中学生以下無料(要証明)。※料金には豊臣石垣館の入館料も含まれる。公園内の散策は無料。
交通: 交通:JR「森ノ宮駅」「大阪城公園駅」や地下鉄「谷町四丁目駅」「森ノ宮駅」等から公園に入り、本丸の中央を目指して徒歩約15〜20分。※駐車場は「大阪城公園駅前」または「森ノ宮」の公園公式駐車場が利用可能。
SPOT 2

大阪城 豊臣石垣館

訪れる価値・見どころ

2025年4月1日に開館。徳川幕府の大工事によって地中深くに埋められていた「豊臣秀吉時代の大坂城の石垣」を、発掘された状態のまま地下空間で見学できる施設。大阪城天守閣の入館チケットで観覧可能。

地形・立地からの視点

本丸広場の地下

見学目安: 編集部目安:約30分
交通: 交通:本丸広場へ入り、天守閣の南東側へ進む。
SPOT 3

徳川期の石垣と巨石

訪れる価値・見どころ

桜門の「蛸石」や大手門の「見付石」など、各大名が威信をかけて運んだ規格外の巨石。現在地表で見られる広大で美しい石垣は、すべて徳川幕府が築いたもの。

地形・立地からの視点

城内の地表に見える石垣全域

見学目安: 編集部目安:散策にあわせて随時
交通: 交通:地下鉄谷町四丁目駅から「大手門(見付石)」へ入り、そのまま本丸の「桜門(蛸石)」へ向かうルートが分かりやすい。
SPOT 4

旧第四師団司令部庁舎(ミライザ大阪城)

訪れる価値・見どころ

1931年、天守閣の復興に合わせて建てられたロマネスク様式の洋風建築。かつては陸軍の司令部、戦後は市立博物館として使われた。外観見学は無料で、内部はレストランや土産物店などの商業施設(一部有料施設あり)として利用できる。

地形・立地からの視点

本丸広場内(天守閣のすぐ隣)

見学目安: 編集部目安:約15分(食事・買い物を除く)
交通: 交通:本丸広場に入り、天守閣の手前(南側)に位置する大きな茶色い洋館。
SPOT 5

石山本願寺推定地の碑

訪れる価値・見どころ

蓮如が築き織田信長と激戦を交えた「石山本願寺」があったことを示す碑。ただし、碑が立つ場所が本願寺遺構の発見位置そのものを示すわけではなく、一帯が推定地とされている。

地形・立地からの視点

大阪城公園内、修道館の西側

見学目安: 編集部目安:約5分
交通: 交通:本丸の手前、修道館(武道場)の西側に位置する。

まとめ:現地で各時代の痕跡をどう見分けるか

現在の大阪城公園を訪れると、ひとつの風景の中に複数の時代が混在していることが分かります。

  • 地下:蓮如の石山本願寺の痕跡や、2025年から「大阪城 豊臣石垣館」で公開される豊臣秀吉の城の石垣。
  • 地表の石垣・水堀・大手門など:徳川幕府が天下普請で築き上げた江戸時代の城郭。
  • 天守閣:昭和初期に市民の力で復興された、豊臣を模した近代建築。
  • 本丸の洋館(ミライザ大阪城)など:明治から戦前にかけての旧陸軍司令部の遺構。

「大阪城」は、単なるひとりの戦国武将の城ではありません。宗教都市から天下人の拠点、軍事施設、そして平和な市民の公園へと、日本の歴史のうねりそのものを体現し続けてきた「土地の記憶」の結晶なのです。

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