
織田信忠|家督継承と軍事総指揮、甲州征討から二条御所の最期まで

基本情報
| 氏名・名称 | 織田信忠(おだのぶただ) |
|---|---|
| 生年・没年 | 1557年(弘治3年) - 1582年(天正10年) |
| 出身地 | 尾張国(愛知県清須市または丹羽郡生駒屋敷と伝わる) |
| 主な居城・拠点 | 岐阜城(岐阜県岐阜市) |
| 種類 | 人物 (武将・偉人など) |
| 時代 | 戦国時代 / 安土桃山時代 |
| 主な地域 | 愛知県、岐阜県、長野県、京都府 |
| 関連タグ | #織田信忠#織田信長#甲州征討#本能寺の変#岐阜城 |
※本記事および年表の日付は、特記のない限り当時の旧暦(太陰太陽暦)で記載しています。
はじめに――織田家の家督継承者・岐阜城主としての歩み
織田信長の長男・織田信忠(おだのぶただ)は、本能寺の変において父と同日に京都で自刃した武将として知られますが、生前の織田政権においてはすでに家督を継承し、広域の領国支配と主要戦線の軍事指揮を担っていました。
信忠は天正3年(1575年)11月、数え19歳で織田家の家督と本拠・岐阜城を譲り受け、尾張・美濃二国を統治しました。その後も大和・信貴山城の松永久秀討伐、播磨・摂津戦線への出陣を重ね、天正10年(1582年)の甲州征討では先鋒大将として伊那から甲斐へ進軍し、武田勝頼を天目山麓へ追い詰めて武田氏を滅ぼしています。
本稿では、元服後の初陣から岐阜城主としての領国支配、甲州征討、そして本能寺の変における二条新御所での最期まで、信忠の事績をたどります。
生誕から元服――織田家嫡男としての成長と武田松姫との婚約
織田信忠は弘治3年(1557年)、織田信長の長男として誕生しました。幼名は「奇妙丸(きみょうまる)」といい、生母は尾張国丹羽郡小口城主・生駒家宗の娘である生駒吉乃(いこまきつの、久庵桂昌大禅定尼)と伝えられています。同母弟には次男・信雄(茶筅丸)、同母妹には松平信康(徳川家康の長男)に嫁いだ徳姫(五徳)がいます。
信忠が生まれた当時の織田家は、弘治2年(1556年)の稲生の戦いで弟・信行(信勝)の反乱を抑えた時期にあたります。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いを経て信長が尾張を統一し、美濃斎藤氏との戦いへ乗り出すなかで、奇妙丸は織田家の嫡男として育てられました。
永禄10年(1567年)、信長が美濃・稲葉山城(井ノ口)を攻略して「岐阜」と改称すると、織田家は甲斐の武田信玄と接近し、奇妙丸と信玄の娘・松姫との婚約が結ばれました。しかし元亀3年(1572年)、信玄が遠江・三河へ侵攻を開始したことで織田・武田の関係は決裂し、この婚約は解消されました。
この元亀3年(1572年)、奇妙丸は元服して初名「信重」、のちに「信忠」(通称・勘九郎/菅九郎)と名乗りました。
初陣から美濃岩村城の攻略
元亀3年(1572年)8月、元服した信忠(数え16歳)は、父・信長とともに北近江の浅井長政攻めに出陣して初陣を飾りました。翌天正元年(1573年)には将軍・足利義昭が籠もる山城・槇島城攻めや、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政攻めに従軍し、天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆攻めにも加わっています。
天正3年(1575年)5月の長篠・設楽原の戦いに参陣したのち、信忠は美濃と信濃の国境に位置する岩村城の攻略を命じられました。岩村城は元亀3年に武田方の秋山虎繁(信友)に奪われていた山城です。信忠は岩村城を包囲して補給路を断ち、同年11月、夜襲をかけてきた城兵を撃退して秋山虎繁らを降伏させました。

調査猫の補足
岩村城攻略において信忠は、周囲に付城(向城)を築いて補給を断ち、城方が打って出たところを迎撃して開城させました。この岩村城攻略の直後、信長は信忠に織田家の家督と岐阜城を譲っています。
織田家家督継承と岐阜城主就任――尾張・美濃の領国支配
岩村城攻略後の天正3年(1575年)11月、織田信長は織田家の家督を数え19歳の信忠に譲り、尾張・美濃両国の支配権と本拠・岐阜城を引き渡しました。
翌天正4年(1576年)、信長は近江の琵琶湖畔に安土城の築城を開始して拠点を移し、信忠は岐阜城を本拠として尾張・美濃の統治にあたりました。信忠は天正3年に出羽介、天正4年に秋田城介に任官し、天正5年(1577年)には従三位・左近衛権中将に叙任されています。
岐阜城主となった信忠は、尾張・美濃の寺社に対して安堵状や禁制を発給し、河尻秀隆・森長可・団忠正・毛利長秀らの美濃・尾張衆を率いて各地の戦線へ出陣する体制を整えました。
信貴山城攻略と播磨・摂津への出陣
家督を継承した信忠は、天正5年(1577年)2月の紀伊雑賀攻めに参陣したのに続き、同年秋には大和・信貴山城に拠って信長から離反した松永久秀の討伐に向かいました。
信忠は大将として佐久間信盛・丹羽長秀・羽柴秀吉・明智光秀・細川藤孝ら諸将とともに信貴山城を包囲し、同年10月10日、城を攻め落として松永久秀を自刃させました。
翌天正6年(1578年)には、播磨の別所長治や摂津の荒木村重が相次いで織田方から離反し、毛利輝元の軍勢や石山本願寺と結んで抗戦しました。信忠は播磨へ出陣して神吉城・志方城などを攻略し、続いて摂津の有岡城包囲戦にも出陣して諸将とともに前線の指揮にあたりました。

歴史マニア猫の補足
信忠のもとには、河尻秀隆(黒母衣衆筆頭)や斎藤利治(斎藤道三の末子)、森長可、団忠正といった尾張・美濃の武将たちが付けられていました。特に河尻秀隆は信忠の補佐役として軍事・政務の両面で行動をともにし、甲州征討の後には甲斐四郡と信濃諏訪郡を与えられています。
天正10年甲州征討――高遠城の戦いと武田氏の滅亡
天正10年(1582年)2月、木曾谷の木曾義昌が武田勝頼から離反して織田方に通じたことを機に、信長は武田領への侵攻(甲州征討)を開始しました。信忠は織田軍の先鋒大将として、美濃・尾張などの軍勢を率いて木曾口・伊那口から信濃へ進撃しました。
伊那谷を進む信忠軍に対し、松尾城の小笠原信嶺らが降伏し、飯田城や大島城の武田勢は退去しましたが、武田勝頼の弟・仁科盛信(信盛)が守る高遠城は降伏勧告を拒んで抗戦しました。
3月2日、信忠は高遠城への総攻撃を命じ、自らも柵を破って城内へ乗り込み、仁科盛信らを討ち取って高遠城を陥落させました。高遠城が落ちると信忠軍はそのまま甲斐へ進軍し、新府城を捨てて逃れた武田勝頼・信勝父子を滝川一益らの軍勢が追撃して、3月11日に天目山麓の田野で自刃させました。また同年4月、信忠は武田旧臣らをかくまったとして甲斐・恵林寺を焼き討ちにし、快川紹喜らを焼殺しています。
後方の安土城から出陣した信長が信濃へ入ったのは武田氏滅亡ののちであり、信長は信忠の戦功を賞して旧武田領の戦後処理を進めました。
本能寺の変――二条新御所での防戦と最期
甲州征討から岐阜へ帰還した信忠は、同年5月、羽柴秀吉の中国(毛利)攻めを支援するため、信長に先立って上洛し、定宿としていた京都の妙覚寺に入りました。5月29日には信長も上洛して本能寺に入り、6月1日の夜には信忠も本能寺を訪れて父と対面したのち、妙覚寺へ戻っています。
翌天正10年(1582年)6月2日早朝、明智光秀の軍勢が本能寺を襲撃しました(本能寺の変)。妙覚寺で変報を受けた信忠は本能寺へ救援に向かおうとしましたが、駆けつけた京都所司代・村井貞勝らから本能寺がすでに焼け落ちたことを知らされ、妙覚寺の北隣にあった誠仁親王の居所・二条新御所(二条殿)へ移って防戦の態勢をとりました。
二条新御所に入った信忠は、御所にいた正親町天皇の皇子・誠仁親王や若宮(のちの後陽成天皇)らを内裏へ退去させたのち、村井貞勝、斎藤利治、福富秀勝、菅屋長頼、猪子兵助、毛利良勝ら側近・馬廻とともに明智軍を迎え撃ちました。明智勢が隣接する近衛前久邸の屋根に上がって弓・鉄砲を撃ちかけると御所内は炎上し、信忠は家臣の前田玄以に、美濃・岐阜城にいる嫡男・三法師(のちの織田秀信、当時数え3歳)の後事を託して脱出させました。玄以は岐阜城へ逃れて三法師を保護し、尾張の清洲城へと移しています。
その後、信忠は鎌田新介に介錯を命じて二条新御所で自刃しました。享年26。本能寺の変で信長と家督継承者の信忠が同日に死亡したことで、織田家は当主を失い、清洲会議における後継者選定と家中の主導権争いへと向かうことになります。
時代背景と関係人物
織田信忠の生涯に関わる主要人物を整理します。
| 人物 | 関係・時期 | 影響・補足 |
|---|---|---|
| 織田信長 | 父(1557〜1582年) | 天正3年(1575年)に家督と岐阜城、尾張・美濃を信忠に譲り、翌年安土城へ移った。 |
| 松姫 | 婚約者(1567〜1572年) | 武田信玄の娘。信忠(奇妙丸)と婚約したが、元亀3年の織田・武田決裂により解消された。 |
| 武田勝頼 | 敵将(1575〜1582年) | 長篠の戦い以降抗争。天正10年の甲州征討で信忠軍の進撃を受け、天目山麓の田野で自刃した。 |
| 仁科盛信 | 敵将(1582年) | 武田信玄の五男。甲州征討で信濃・高遠城に籠城し、信忠軍の攻撃を受けて討死した。 |
| 前田玄以 | 家臣(のち京都奉行) | 信忠に仕え、本能寺の変に際して二条新御所から三法師の後事を託されて美濃・岐阜城へ逃れ、三法師を擁して尾張・清洲城へ移った。 |
| 三法師(織田秀信) | 長男(1580〜1605年) | 信忠の嫡男。本能寺の変当時は岐阜城におり、前田玄以に伴われて清洲城へ移り、清洲会議で織田家の後継者に立てられた。 |
年表
年表
※年齢は数え年で表記
織田信長の長男として誕生
信長の長男(幼名・奇妙丸)として誕生。生母は生駒屋敷の生駒吉乃(久庵桂昌大禅定尼)とされる。
元服し、北近江攻めで初陣を飾る
元服して初名・信重(のちに信忠)を名乗り、同年8月の北近江・浅井長政攻めに父・信長とともに出陣して初陣を飾る。武田信玄の娘・松姫との婚約は信玄の西上作戦により破談となる。
浅井・朝倉攻めおよび伊勢長島一向一揆攻めに従軍
室町幕府将軍・足利義昭の槇島城攻め、北近江の浅井氏・越前の朝倉氏討滅戦、さらに天正2年の伊勢長島一向一揆攻めに従軍する。
長篠の戦い参戦と美濃岩村城の攻略
5月に長篠・設楽原の戦いに参陣し、続いて武田方の秋山虎繁(信友)が守る美濃岩村城を包囲。11月に夜襲を撃退して開城させる。
織田家家督を継承し、岐阜城主となる
岩村城攻略ののち、父・信長から織田家の家督と尾張・美濃両国の支配権、および本拠・岐阜城を譲り受け、出羽介(翌年に秋田城介)に任官する。
大和・信貴山城の松永久秀を攻略
信長から離反した大和・信貴山城の松永久秀に対し、佐久間信盛・羽柴秀吉・明智光秀ら諸将を率いて出陣。城を攻略して久秀を自刃させ、従三位・左近衛権中将に叙任される。
播磨・摂津戦線への出陣
別所長治が籠城する播磨・三木城攻めや、荒木村重が離反した摂津・有岡城攻めに軍勢を率いて出陣する。
甲州征討の先鋒大将を務め、武田氏を滅ぼす
武田勝頼を討つ甲州征討の先鋒大将として木曾口・伊那口から信濃へ進撃。高遠城で仁科盛信を破り、甲斐へ進んで武田氏を滅ぼす。
本能寺の変が勃発、二条新御所で自刃
上洛して妙覚寺に滞在中、明智光秀の謀反に遭遇。誠仁親王の御座所であった二条新御所へ移り、親王らを退去させたのち防戦。前田玄以に岐阜城の三法師の後事を託して自刃した。
ゆかりの地

旅猫の案内
岐阜城(金華山)
天正3年(1575年)11月に父・織田信長から織田家の家督とともに譲り受け、本拠として尾張・美濃の領国支配を行った城です。信忠はここから各地の戦線へ出陣し、領国統治の文書を発給しました。
訪れる価値・見どころ
金華山山頂に建つ復興天守からは長良川や濃尾平野が一望できます。山頂の本丸周辺には信長・信忠期の石垣遺構が点在し、山麓の岐阜公園内には信長公居館跡の発掘遺構が整備されています。
崇福寺(織田信長・信忠父子廟)
織田信長・信忠父子が庇護した臨済宗妙心寺派の寺院です。本能寺の変の直後、信長の側室・お鍋の方(小倉氏)によって信長・信忠父子の遺品が運び込まれ、父子の菩提を弔う廟所が築かれました。
訪れる価値・見どころ
境内奥に「織田信長公父子廟」の石塔が並び立ち、織田家ゆかりの位牌や書状などの寺宝が伝わります。なお、本堂廊下の「血天井」は慶長5年(1600年)の関ヶ原前哨戦で信忠の嫡男・織田秀信が守る岐阜城が落城した際の戦死者を供養するため移築されたものです。
高遠城址公園(高遠城跡)
天正10年(1582年)2月〜3月の甲州征討において、先鋒大将の織田信忠が率いる軍勢が武田方の仁科盛信(武田信玄の五男)と戦った城跡です。信忠は自ら柵を破って突入を指揮し、城を攻略しました。
訪れる価値・見どころ
三峰川と藤沢川が合流する河岸段丘上に築かれた国指定史跡の城跡で、本丸・二の丸・勘助曲輪などを隔てる深い空堀や土塁が良好に残されています。春はタカトオコヒガンザクラの名所として知られ、隣接する伊那市立高遠町歴史博物館で合戦の歴史を学べます。
妙覺寺
本能寺の変当時、上洛していた織田信忠が宿所としていた日蓮宗の由緒寺院です。信忠は上洛のたびに妙覺寺を定宿としており、天正10年6月2日早朝、ここで明智光秀の謀反を知り、二条新御所へと移りました。
訪れる価値・見どころ
天正年間当時は押小路通新町西入(二条新御所の南隣)にあり、のち豊臣秀吉の都市改造により現在地へ移転しました。聚楽第の裏門を移築したと伝わる大門や、本能寺の変の翌年に信忠追善供養が営まれた歴史を伝える織田信忠公墓塔(供養塔)が残されています。
二条新御所跡(二条殿址)
本能寺の変の際、妙覺寺を出た織田信忠が籠城・防戦の拠点とした場所です。公家の二条晴良邸(二条殿)を信長が譲り受けて造営し、天正7年(1579年)に正親町天皇の皇太子・誠仁親王へ献上した御所であり、永禄12年に足利義昭のために築いた旧二条城とは別の邸宅です。
訪れる価値・見どころ
現在は室町通・両替町通の御池上る一帯の市街地となっており、両替町通御池上る東側(金吹町)に京都市による「二条殿址」の石碑が建てられています。信忠が誠仁親王らを脱出させたのち、明智軍を迎え撃って自刃した終焉の地を現地で確かめることができます。
まとめ
織田信忠は弘治3年(1557年)に織田信長の長男として生まれ、元亀3年(1572年)の初陣以降、浅井・朝倉攻めや長島一向一揆攻め、長篠の戦いに従軍しました。天正3年(1575年)11月に美濃岩村城を攻略すると、数え19歳で信長から織田家の家督と尾張・美濃両国、および岐阜城を譲り受け、安土城の信長とともに政権の一翼を担いました。
その後、大和・信貴山城の松永久秀討伐や播磨・摂津への出陣を経て、天正10年(1582年)春の甲州征討では先鋒大将として高遠城を攻略し、武田氏を滅ぼしました。しかし同年6月2日、中国攻めのため滞在していた京都で本能寺の変に遭い、二条新御所で誠仁親王らを退去させ、前田玄以に三法師の後事を託した上で、数え26歳で自刃しました。


