人物戦国時代安土桃山時代

織田信長(第2回)美濃攻略と上洛、足利義昭との決裂|岐阜の「天下布武」と室町幕府の終焉

公開: 2026-10-29
愛知県、岐阜県、滋賀県、京都府
清洲同盟で東方を固めた信長は、小牧山城への移転を経て美濃・稲葉山城を攻略し、地名を「岐阜」と改めて「天下布武」の印を用い始めます。足利義昭を奉じた上洛から、二条城造営・殿中御掟による協調、そして意見十七ヶ条・槙島城の戦いによる決裂までの政治過程をたどります。
織田信長(第2回)美濃攻略と上洛、足利義昭との決裂|岐阜の「天下布武」と室町幕府の終焉のイメージ

基本情報

氏名・名称織田信長(おだのぶなが)
生年・没年天文3年(1534年)〜天正10年(1582年)
出身地尾張国(勝幡城または那古野城)
主な居城・拠点小牧山城 → 岐阜城
家族・一族父:織田信秀 / 正室:帰蝶(濃姫) / 妹:お市の方(浅井長政室) / 嫡男:織田信忠
功績・主な戦い小牧山城の築城と城下町整備、美濃・稲葉山城攻略と「岐阜」改称、加納の楽市楽座制札発給、足利義昭を奉じた上洛と旧二条城造営
種類人物 (武将・偉人など)
時代戦国時代 / 安土桃山時代
主な地域愛知県、岐阜県、滋賀県、京都府
関連タグ
#織田信長#小牧山城#岐阜城#天下布武#足利義昭#室町幕府

この連載の記事一覧(全4回)

※本記事の年表・本文における日付は、当時の史料に基づく旧暦(太陰太陽暦)を基準とし、年齢は数え年(天文3年=1534年生まれを1歳とする計算)で表記しています。

小牧山城への移転と美濃攻略――尾張北辺から稲葉山城へ

第1回で見たとおり、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、永禄5年(1562年)に松平元康(徳川家康)と清洲同盟を結んだ織田信長は、東方の三河戦線を安定させるとただちに北方の美濃攻略へと舵を切りました。美濃では弘治2年(1556年)に岳父・斎藤道三が敗死したのち、その子・斎藤義龍が織田軍の侵攻をたびたび退けていましたが、永禄4年(1561年)5月に義龍が急死し、若年の嫡男・斎藤龍興が後を継いだことで、美濃国内の家臣団に動揺が生じていたのです。

永禄6年(1563年)、信長は長年の本拠であった清洲城から、北へ約10キロメートル進出した尾張北部の独立峰・小牧山(標高約86メートル)へと居城を移す決断を下しました。信長が初めて自らの構想でゼロから築いたこの小牧山城は、近年の発掘調査によって、山頂の主郭周辺に巨石を用いた石垣を巡らせ、大手道を直線的に整備し、南麓には武家屋敷と町人地を計画的に区画した城下町を伴っていたことが判明しています。清洲の家臣や町人を半ば強制的に移住させて造り上げた小牧山城は、軍事上の前進基地であると同時に、のちの岐阜城・安土城へと続く「石垣の城と計画的城下町」の原型となりました。

小牧山に拠点を据えた信長は、まず反旗を翻していた尾張北端の犬山城主・織田信清(信長の従兄)を攻め、永禄8年(1565年)までに犬山城を攻略して木曽川南岸を完全に掌握しました。同時に木曽川を越えて東美濃(中濃)へ進出し、丹羽長秀や木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)らを動かして猿喰(さるばみ)城・堂洞(どうほら)城を落とし、加治田城の佐藤忠能らを味方に引き入れて東美濃から稲葉山城の背後を脅かす態勢を築き上げました。

そして永禄10年(1567年)8月、斎藤家の重臣である「西美濃三人衆」(稲葉良通[一鉄]・安藤守就・氏家直元[卜全])が信長に内応して人質を差し出すと、信長は間髪を入れずに全軍に出陣を命じました。強風に乗じて井ノ口(稲葉山城下)の町を焼き払い、四方から稲葉山城を包囲された斎藤龍興は、8月15日についに城を明け渡して伊勢長島方面へと退去しました。こうして信長は、尾張・美濃の濃尾二か国を束ねる大勢力へと躍り出たのです。

「岐阜」改称と「天下布武」――楽市楽座が示す統治の実態

稲葉山城へ入城した信長は、禅僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)の進言を受け、中国の周の文王が岐山(きざん)から起こって天下を平定した故事などにちなみ、これまでの「井ノ口」という地名を「岐阜」へと改めました。そして同年11月頃から、信長は文書に「天下布武」の四文字を刻んだ馬蹄形(のち楕円形)の朱印を用い始めます。

この「天下布武」という言葉は、かつて「日本全国のすべてを武力で征服する」という過激な宣言と解釈されることがありました。しかし近年の歴史学研究では、当時の「天下」という語が主に京都を中心とした畿内(五畿内)および室町幕府の支配領域を指していたこと、またちょうどこの時期に信長が第13代将軍・足利義輝の弟である足利義秋(のちの義昭)から上洛の要請を受けていたことから、「武(軍事力)によって将軍を奉じ、戦乱の続く畿内(天下)に秩序と静謐をもたらす」という政治的スローガンであったと理解されています。

調査猫

調査猫の補足

永禄10年(1567年)10月に信長が岐阜城下の加納(円徳寺所蔵、重要文化財)に発給した「楽市楽座制札」も、信長の経済政策を知るうえで欠かせない一次史料です。この制札は「当市場越居之者」すなわち加納の市場へ移り住む者に対し、分国中の往還の安全を保証し、借銭・借米・地子(宅地税)・諸役を免除し、押買・狼藉や宿の強制を禁じています。ただしこれは既存のすべての商業秩序を破壊したものではなく、戦乱で荒廃した城下へ商人を呼び戻すための「百姓帰住制札」と対になって発給されており、六角氏の観音寺城下(石寺新市)や今川氏など先行する戦国大名の楽市政策を継承・発展させた実務的な都市振興策だったのです。

また信長は、金華山山頂の岐阜城を詰城・象徴空間として整備する一方、西麓の千畳敷(現在の岐阜公園内)に巨石列の通路と池泉庭園を備えた壮麗な山麓居館を造営しました。平時の政務・外交を山麓の居館で行い、山頂に城を構えるこの二元的な構造は、尾張・美濃の支配者から中央政界と向き合う政権へと脱皮しつつあった信長の姿を象徴しています。

足利義昭を奉じた上洛――観音寺城の戦いと第15代将軍擁立

永禄8年(1565年)5月の「永禄の変」で第13代将軍・足利義輝が三好義継・三好三人衆・松永久秀らに殺害されたのち、奈良・興福寺一乗院を脱出した弟の覚慶(還俗して義秋、のち義昭)は、近江の矢島、若狭の武田氏、さらに越前の朝倉義景のもとを転々としながら上洛の支援を求めていました。しかし朝倉義景が越前国内の事情から上洛に踏み切れないでいるなか、美濃を平定した信長は、不破光治・和田惟政・村井貞勝・島田秀満・明智光秀らを通じて義昭を迎え入れる交渉を進めました。

さらに信長は、北近江の戦国大名・浅井長政に妹・お市を嫁がせて同盟を結び、美濃から近江を経て京都へ至る回廊を確保します。永禄11年(1568年)7月、ついに越前から美濃へ入った足利義昭を岐阜の立政寺に迎えた信長は、義昭の上洛を阻もうとする南近江の六角義賢(承禎)・義治父子に対し、同年9月に尾張・美濃・伊勢・三河の軍勢を率いて進撃を開始しました。

信長は六角氏の本城・観音寺城を囲む支城のうち、和田山城を牽制しつつ箕作(みつくり)城を佐久間信盛・木下藤吉郎・丹羽長秀らに命じて一昼夜で攻め落としました(観音寺城の戦い)。この迅速な攻略に衝撃を受けた六角義賢・義治父子は観音寺城を捨てて伊賀・甲賀方面へ逃亡し、南近江の諸勢力は雪崩を打って降伏しました。9月26日に義昭を奉じて入京を果たした信長は、三好三人衆を摂津・阿波へと駆逐し、10月18日、足利義昭は朝廷から第15代征夷大将軍に任じられました。

このとき義昭は、上洛の最大の功労者である信長を「管領」や「副将軍」の要職に任じ、また近江・山城・摂津・和泉・河内での領地を与えようとしましたが、信長は公儀の役職を辞退し、代わりに堺・大津・草津に代官を置く権利や商業都市・堺からの矢銭徴収など、実質的な経済・交通上の権益を選び取りました。幕府の役職体系の下位に組み込まれることを避け、将軍・義昭を支える自立した軍事・政治権力としての立場を保ったのです。

協調から対立へ――「殿中御掟」「五ヶ条の条書」と『異見十七ヶ条』

上洛直後の信長と足利義昭の関係は、最初から敵対していたわけではなく、むしろ室町幕府の再興を目指して協調する体制から出発しました。永禄12年(1569年)1月、信長が岐阜へ帰還していた隙を突いて三好三人衆が京都・本圀寺の義昭を襲撃する事件(本圀寺の変)が起きると、明智光秀や細川藤孝、三好義継・池田勝正らがこれを撃退し、急報を受けた信長も大雪のなかわずか2日で岐阜から京へ駆けつけました。

この事件を受けて信長は、義昭のために14か国の人足を動員して二重の堀と高石垣を備えた強固な「二条城(旧二条城)」を造営する一方、同年1月に「殿中御掟」九ヶ条(および追加七ヶ条)を提示して義昭に承認させました。これは、幕府の奉公衆や部屋衆など殿中に伺候する者の範囲や、訴訟の受理手続きを定めたもので、従来の室町幕府の慣例を再確認しつつ将軍の恣意的な側近政治を抑制する規定でした。

しかし、義昭が将軍として独自に諸国の大名へ御内書(将軍の書状)を発給し、また信長配下の寺社や公家の所領問題に介入するようになると、両者の間には次第に摩擦が生じるようになります。元亀元年(1570年)1月、信長は義昭と「五ヶ条の条書」を交わし、諸国へ御内書を下す際には必ず信長の添状を付けること、これまでの義昭の裁許で不都合があるものは差し止めること、そして「天下の儀は何事も信長に任せ置かれる上は、誰によらず将軍の上意を得るに及ばず、信長自身の存分次第に成敗を加える」という条項を認めさせました。

それでも義昭は将軍としての主体的な政治権力を手放そうとせず、同年4月に信長が越前の朝倉義景攻めに出陣して浅井長政の離反(金ヶ崎の退き口)に遭うと、比叡山延暦寺や石山本願寺(顕如)、さらには甲斐の武田信玄らと水面下で連絡を取り始めます。そして元亀3年(1572年)9月、信長はついに義昭に対して『異見十七ヶ条(諫言十七ヶ条)』を提出しました。

歴史マニア猫

歴史マニア猫の補足

『異見十七ヶ条』は、信長が義昭の政治姿勢を17項目にわたって批判した長文の文書で、しかも写しを広く流布させて世論に訴えるという極めて戦略的な手法がとられました。その中身を見ると、第1条で「先代・義輝公が参内を怠ったために冥加が尽きて最期を遂げられたのに、義昭公も上洛以来一度も参内されていないのは勿体ない」と朝廷軽視を批判し、さらに「諸大名から馬や金銀を強引に徴収している」「賄賂の多寡で訴訟の裁許を曲げている」「年号が元亀であるのは不吉だから改元せよと朝廷が言っているのに費用を出さない」「世間では公方様(義昭)を悪御所と噂している」など、具体的かつ辛辣な言葉が並んでいます。将軍に対する臣下の礼をとりながらも、「天下の秩序と朝廷を重んじているのは義昭ではなく信長である」という正当性を天下にアピールした文書なのですね。

槙島城の戦いと義昭追放――室町幕府の終焉

『異見十七ヶ条』が突きつけられた翌月の元亀3年(1572年)10月、武田信玄が甲府を出陣して遠江・三河へ侵攻し、12月の三方ヶ原の戦いで徳川家康・織田援軍を撃破すると、元亀4年(1573年)2月、足利義昭はついに信長討伐の兵を挙げました。義昭は近江の石山城・今堅田に兵を出し、自ら二条城に籠もって浅井・朝倉・本願寺・武田の諸勢力と呼応したのです。

これに対し信長は、まず柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・羽柴秀吉らを派遣して石山城と今堅田を撃破させ、3月下旬に自ら大軍を率いて上洛しました。当初、信長は義昭に人質を差し出してでも和睦する姿勢を見せましたが、義昭が拒絶すると、4月3日から4日にかけて上京(かみぎょう)一帯に火を放ち、二条城を完全に包囲しました。圧倒的な軍事力を前に義昭は正親町天皇の勅命による和睦を受け入れましたが、信長が岐阜へ帰還すると、同年7月に再び二条城を出て宇治の巨椋池(おぐらいけ)に浮かぶ要害・槙島(まきしま)城に立て籠もりました。

信長はただちに佐久間信盛・稲葉良通・羽柴秀吉・明智光秀らとともに7万ともいわれる大軍で再度上洛し、二条城を落としたうえで7月18日に宇治川の増水をものともせず渡河して槙島城を総攻撃しました。外郭を破られた義昭は降伏を申し入れ、幼少の嫡男・義尋(ぎじん)を人質として差し出し、自らは京都を退去して河内国の若江城(三好義継の居城)へと送られました。

応仁の乱以前から約240年間にわたって続いた室町幕府は、この元亀4年(1573年)7月の義昭追放によって事実上滅亡しました(※名目上の征夷大将軍職は義昭が天正16年=1588年に出家するまで保持)。義昭を追放した直後の7月28日、信長の奏請によって元号は「元亀」から「天正」へと改元されます。将軍・足利義昭という既存の権威を媒介とした段階を終えた信長は、自ら朝廷と直接結びつきながら、畿内周辺を取り巻く諸勢力との全面戦争と新たな政権構想へと踏み出していくことになります。

時代背景と関係人物

人物関係・時期影響・補足
斎藤龍興美濃国主(斎藤道三の孫)父・義龍の急死後に稲葉山城を継いだが、西美濃三人衆の離反により永禄10年(1567年)8月に信長に城を奪われ、伊勢長島や越前朝倉氏のもとで反信長戦線を続けた。
稲葉良通(一鉄)西美濃三人衆の一人安藤守就・氏家直元とともに斎藤龍興を見限って信長に帰順し、美濃平定の決定打をもたらした。上洛戦や槙島城の戦いでも主力として従軍。
六角義賢(承禎)南近江の守護大名観音寺城を本拠に足利義昭・信長の上洛を阻もうとしたが、永禄11年(1568年)9月に箕作城を落とされて敗走し、以後も甲賀・伊賀方面からゲリラ戦を続けた。
足利義昭室町幕府第15代将軍信長の軍事力によって永禄11年(1568年)に上洛し将軍に就任。当初は協調したものの権限をめぐり対立し、元亀4年(1573年)7月の槙島城の戦いで追放された。
細川藤孝(幽斎)幕臣・のち織田家臣明智光秀らとともに足利義昭の美濃動座と上洛に尽力したが、義昭が信長に対して再挙した際には信長方に属し、山城国長岡(勝龍寺城)を与えられた。
武田信玄甲斐・信濃・駿河の戦国大名当初は信長と友好的であったが、元亀3年(1572年)に義昭や本願寺と呼応して西上作戦を開始し、義昭が信長に対して挙兵する最大の契機を作った。

年表

年表

※年齢は数え年で表記

1563年(永禄6年)数え30歳

小牧山城を築き、清洲城から本拠を移す

美濃攻略の前進拠点として標高約86メートルの小牧山に石垣を備えた城郭と山麓の計画的城下町を築き、清洲から家臣団・町人を移住させる。

1565年(永禄8年)数え32歳

犬山城を攻略し、美濃国境の諸城を制圧

従兄・織田信清が拠る犬山城を攻略して尾張北部を完全に平定し、木曽川を渡って東美濃の猿喰城・堂洞城・加治田城を次々と制圧する。

1567年(永禄10年)数え34歳

稲葉山城を攻略し、「岐阜」と改称・楽市楽座制札を発給

8月、西美濃三人衆(稲葉良通・安藤守就・氏家直元)の帰順を得て斎藤龍興の稲葉山城を攻略。井ノ口を「岐阜」と改め、10月に加納へ楽市楽座制札を下し、11月から「天下布武」の朱印を使用する。

1568年(永禄11年)数え35歳

足利義昭を美濃に迎え、上洛戦を敢行

7月に越前朝倉義景のもとから足利義昭を美濃・立政寺に迎える。9月に近江の六角義賢・義治父子を観音寺城・箕作城の戦いで破って入京し、10月に義昭が第15代征夷大将軍に就任する。

1569年(永禄12年)数え36歳

「殿中御掟」の制定と二条城の造営

1月、本圀寺の変で三好三人衆の襲撃を受けた義昭のため、新造の二条城(旧二条城)を築くとともに、幕府の訴訟や奉公衆の規律を定めた「殿中御掟」九ヶ条(および追加七ヶ条)を提示して義昭の承認を得る。

1570年(元亀元年)数え37歳

「五ヶ条の条書」による幕府との権限調整

1月、朝廷・公家への対応や諸国大名への御内書発給に信長の添状を要することなどを定めた「五ヶ条の条書」を義昭と確認し、将軍権威と織田権力の二重構造を調整する。

1572年(元亀3年)数え39歳

足利義昭に対し『異見十七ヶ条』を提出

9月、武田信玄の西上作戦が始まる緊迫した情勢のなか、義昭の参内懈怠や金銭徴収・訴訟の不公正などを列挙した『異見十七ヶ条』を突きつけ、双方の対立が決定的となる。

1573年(元亀4年/天正元年)数え40歳

義昭が挙兵、上京焼き討ちと一旦の和睦

2月、義昭が信長討伐の兵を挙げる。信長は3月下旬に上洛し、4月に上京を焼き払って二条城を包囲し、正親町天皇の勅命により一旦和睦が成立する。

1573年(天正元年)数え40歳

槙島城の戦いで足利義昭を追放し、室町幕府が事実上滅亡

7月、再挙して宇治の槙島城に籠もった義昭を大軍で包囲して降伏させ、京都から河内・若江城へと追放。7月28日には元号が「天正」へと改元される。

ゆかりの地

旅猫

旅猫の案内

第2回のゆかりの地は、尾張北部の小牧山城跡から美濃の岐阜城・信長公居館跡、さらに近江の観音寺城跡と京都の旧二条城跡へと、信長の上洛ルートに沿って西へ連なっています。名鉄小牧線の小牧山城跡と岐阜公園(岐阜城・信長公居館跡)は名古屋・岐阜エリアとして1日で巡ることができ、山頂の城と山麓の居館・城下町という二元構造を現地で比較できます。別日にJR琵琶湖線(東海道本線)安土駅から観音寺城跡を訪ね、京都市営地下鉄丸太町駅近くの旧二条城跡碑へと足を延ばすと、永禄11年(1568年)の上洛戦から幕府との協調・決裂までの舞台を一本の線でたどれます。
SPOT 1

小牧山城跡

永禄6年(1563年)、信長が美濃攻略を見据えて初めて自らの設計で築いた居城であり、永禄10年(1567年)に岐阜へ移るまで4年間本拠としました。近年の発掘調査により、主郭部の本格的な石垣や南麓の計画的な城下町が確認され、岐阜城・安土城へつながる信長の城郭・都市政策の出発点として位置づけられています。

訪れる価値・見どころ

国指定史跡の小牧山全体が公園として整備され、信長築城期の石垣遺構や大手道、のちの小牧・長久手の戦いで徳川家康が改修した土塁・空堀を見学できます。山麓の史跡情報館「れきしるこまき」と山頂の「小牧山歴史館」では、発掘成果に基づく模型や出土品が詳しく展示されています。

営業: 9:00〜16:30(歴史館は第3木曜・年末年始休館)
料金: 一般200円、18歳以下無料(小牧山歴史館・れきしるこまき共通)
駐車場: あり(普通車約40台、最初の2時間無料)
交通: 名鉄小牧線小牧駅から徒歩約15分
SPOT 2

岐阜城

永禄10年(1567年)8月に信長が斎藤龍興から奪取した稲葉山城を改称し、天正4年(1576年)に安土城へ移るまでの約9年間、「天下布武」の本拠地とした山城です。山頂は非常時の詰城および一族の居住空間として整えられ、上洛戦や信長包囲網との戦いを指揮する戦略中枢となりました。

訪れる価値・見どころ

標高約329mの金華山一帯が国指定史跡「岐阜城跡」となっており、山頂周辺には信長期の石垣遺構や曲輪跡が残されています。なお、山頂の復興天守閣と資料館は2026年5月19日から2027年10月末(予定)まで耐震・改修工事のため休館中ですが、金華山ロープウェーで山頂展望台へ上がり濃尾平野を一望することは可能です。

営業: 季節により異なる(通常9:30〜17:30、※2026年5月19日〜2027年10月末予定まで天守閣は改修工事のため休館中)
料金: 大人200円、小人100円(ロープウェー往復は別途 大人1,100円)
駐車場: あり(岐阜公園駐車場)
交通: JR・名鉄岐阜駅からバス「岐阜公園・岐阜城」下車、金華山ロープウェー利用
SPOT 3

岐阜公園・織田信長公居館跡(千畳敷)

金華山山頂の岐阜城とは別に、信長が平時の政務・外交・迎賓の場として西麓の「千畳敷」に造営した巨大な山麓居館跡です。永禄12年(1569年)にこの居館を訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、豪華な四階建ての建物や美しい庭園・茶席の様子をヨーロッパへ書き送っています。

訪れる価値・見どころ

発掘調査によって、通路の両側に巨石を並べた威圧的な入口遺構や、高石垣、金箔瓦、水路・池を配した庭園跡が確認され、現在は平面表示として整備・公開されています。ロープウェー山麓駅すぐそばに位置し、隣接する岐阜市歴史博物館とあわせて信長公居館の構造を詳しく学べます。

営業: 散策自由(史跡案内施設・冠木門周辺は常時開放)
料金: 無料
駐車場: あり(岐阜公園堤外駐車場、普通車1回310円)
交通: JR「岐阜駅」または名鉄「名鉄岐阜駅」から岐阜バスで約15分、「岐阜公園歴史博物館前」下車徒歩約3分
SPOT 4

観音寺城跡

南近江の守護・六角義賢(承禎)・義治父子が本拠とした標高約433メートルの繖山(きぬがさやま)に築かれた巨大山城です。永禄11年(1568年)9月、足利義昭を奉じて上洛戦を開始した信長が支城の箕作城・和田山城を猛攻して落としたことで、六角父子は観音寺城を捨てて逃亡し、信長の入京への道が開かれました。

訪れる価値・見どころ

信長の安土城に先駆けて山頂部全体に巨石を用いた総石垣づくりの曲輪群が築かれており、平井丸や池田丸、大石垣など中世山城から近世城郭への過渡期を示す壮大な石垣遺構が山中に残されています。中腹の観音正寺参道から歩いて見学することができます。

営業: 散策自由(※観音正寺境内を経由する場合は8:00〜17:00)
料金: 城跡散策無料(※観音正寺境内を通行する場合は入山料 大人500円、中高生300円)
駐車場: あり(観音正寺表参道駐車場・山上駐車場)
交通: JR琵琶湖線「安土駅」からタクシーで約15分(観音正寺表参道駐車場または林道経由)、そこから徒歩約20〜40分
SPOT 5

旧二条城跡

永禄12年(1569年)1月の本圀寺の変の後、信長が第15代将軍・足利義昭の新たな居館として14か国の兵を動員し、かつての斯波氏邸(武衛陣)跡を拡張して築いた城郭です。二重の堀と高い石垣を備え、諸寺から名石や庭木を集めて築かれた政権中枢でしたが、元亀4年(1573年)に義昭が挙兵した際には信長軍に包囲されました。

訪れる価値・見どころ

徳川家康が築いた現在の元離宮二条城(堀川通沿い)より約1キロメートル北東の室町通・烏丸通付近(平安女学院大学周辺)に位置していました。地下鉄丸太町駅北側の烏丸通沿いや下立売通室町には「旧二条城跡」の石碑と案内板が立ち、地下鉄工事の際に出土した石垣の一部は現在の二条城内などに移築保存されています。

営業: 見学自由(街路上の石碑・説明板)
料金: 無料
駐車場: なし(周辺の有料コインパーキングを利用)
交通: 京都市営地下鉄烏丸線「丸太町駅」から徒歩約3分

まとめ――将軍を奉じる大名から、自ら秩序を創る政権へ

小牧山城への移転と美濃・稲葉山城の攻略によって濃尾二か国を統合した信長は、「岐阜」への改称と「天下布武」の印判を通じて、室町将軍・足利義昭を奉じて畿内の戦乱を平定するという大義を掲げました。永禄11年(1568年)の上洛から元亀4年(1573年)の槙島城の戦いに至る5年間は、信長が将軍権威との協調(「殿中御掟」「五ヶ条の条書」)を模索しながらも、やがて『異見十七ヶ条』と武力鎮圧によって室町幕府体制そのものを乗り越えていく過程でした。

しかし、この上洛と義昭との対立の渦中で、信長は越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、比叡山延暦寺、石山本願寺・一向一揆、そして甲斐の武田氏という幾重もの包囲網と戦うことになります。続く第3回では、それら反信長勢力との激闘と、天正4年(1576年)から築かれた「安土城」と安土政権の統治構造をたどります。

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