
織田信長(第1回)尾張の家督争いから桶狭間へ|「うつけ」伝承の裏にある実務と統一過程

基本情報
| 氏名・名称 | 織田信長(おだのぶなが) |
|---|---|
| 生年・没年 | 天文3年(1534年)〜天正10年(1582年) |
| 出身地 | 尾張国(勝幡城または那古野城) |
| 主な居城・拠点 | 那古野城 → 清洲城 |
| 家族・一族 | 父:織田信秀 / 母:土田御前 / 正室:帰蝶(濃姫) / 同母弟:織田信勝(信行) / 叔父:織田信光 |
| 功績・主な戦い | 清洲織田氏・岩倉織田氏の討滅による尾張統一、長柄槍・鉄砲の集団運用、桶狭間の戦いでの今川義元討取、徳川家康との清洲同盟締結 |
| 種類 | 人物 (武将・偉人など) |
| 時代 | 戦国時代 |
| 主な地域 | 愛知県 |
| 関連タグ | #織田信長#織田信秀#平手政秀#清洲城#桶狭間の戦い#清洲同盟 |
この連載の記事一覧(全4回)
- 第1回:織田信長(第1回)尾張の家督争いから桶狭間へ|「うつけ」伝承の裏にある実務と統一過程(現在の記事)
- 第2回:公開をお待ちください
- 第3回:公開をお待ちください
- 第4回:公開をお待ちください
※本記事の年表・本文における日付は、当時の史料に基づく旧暦(太陰太陽暦)を基準とし、年齢は数え年(天文3年=1534年生まれを1歳とする計算)で表記しています。
はじめに――織田信秀が築いた尾張の基盤と「織田弾正忠家」
戦国時代の尾張国(現在の愛知県西部)は、決して最初から織田信長が単独で支配していた領国ではありませんでした。室町幕府の制度上、尾張の守護は足利一門の斯波(しば)氏であり、その下で守護代を務めたのが織田氏でした。しかし15世紀後半の応仁・文明の乱を経て織田氏は、尾張上四郡を管轄する「伊勢守家(岩倉織田氏)」と、下四郡を管轄する「大和守家(清洲織田氏)」の二家に分裂して抗争を繰り返していました。
信長の父・織田信秀が率いた「織田弾正忠家(だんじょうのちゅうけ)」は、もともと下四郡の守護代・清洲織田氏に仕える「三奉行」の一つにすぎませんでした。それにもかかわらず弾正忠家が主家をしのぐ実力を蓄えた背景には、信秀の巧みな経済掌握と拠点展開がありました。信秀は木曽川・日光川水系の水運の要衝である勝幡城(現在の稲沢市・愛西市境)を拠点に、湊町・津島(津島神社の門前町)の商業・金融権益を抑えました。さらに天文7年(1538年)頃には今川氏豊から那古野城(現在の名古屋城二之丸付近)を奪い、自らは古渡城、次いで末森城へと東南へ居城を進めながら、もう一つの大商業都市である熱田(熱田神宮の門前町)をも支配下に収めたのです。
津島と熱田という二大商業・港湾都市から上がる潤沢な経済力は、信秀に朝廷への内裏修理費四千貫文の献上や伊勢神宮外宮の仮殿造営を可能にさせ、同時に三河の松平氏・駿河の今川義元・美濃の斎藤道三と複数戦線で渡り合う軍事力を支えました。天文3年(1534年)5月、この信秀の嫡男として生まれた吉法師(のちの織田信長)は、父が切り開いた水陸交通・商業ネットワークと、いまだ尾張国内に割拠する諸勢力との緊張関係という二つの遺産を引き継ぐことになります。
「大うつけ」伝承と実務的鍛錬――『信長公記』首巻をどう読むか
幼少期に父から那古野城を与えられた吉法師は、天文15年(1546年)に古渡城で元服して「三郎信長」と名乗り、翌天文16年(1547年)には三河国吉良大浜へ出陣して初陣を果たしました。この青年期の信長について広く知られているのが、半裸に近い袖なしの湯帷子(ゆかたびら)を着て、腰には火打袋や瓢箪(ひょうたん)をいくつもぶら下げ、髪を茶筅(ちゃせん)に結い上げて町中で栗や柿・瓜をかじりながら歩いたという「大うつけ(愚か者)」の逸話です。
これらの描写は、信長の旧臣・太田牛一が著した『信長公記』首巻に記されているものですが、史料を読む際には「傾奇(かぶき)的な振る舞いの逸話」と、同じ『信長公記』が同時に記録している「軍事・実務面の計画的な行動」とを区別して捉える必要があります。太田牛一は、信長が奇抜な装いで周囲から「うつけ」と噂されたと記す一方で、16歳から18歳にかけて毎朝欠かさず馬術を鍛錬し、3月から9月までは川で水練(水泳)に励み、竹槍の合戦訓練を自ら観察して「従来の短い槍では不利である」と判断し、三間(約5.4メートル)および三間半(約6.3メートル)の長柄槍(ながえやり)を統一規格として採用させたこと、さらに弓や市川大介から学んだ鉄砲、平田三位に学んだ兵法に日々打ち込んでいたことを具体的に記録しています。

調査猫の補足
『信長公記』首巻に描かれる若き信長の姿は、単なる乱行の記録ではありません。天文22年(1553年)4月に美濃国富田の正徳寺(聖徳寺)で岳父・斎藤道三と会見した際、信長は道中の茶屋までは異装で現れながら、対面直前に折目正しい褐色の肩衣・半袴に着替え、朱鞘の大小を差して端正な姿で道三の前に進み出ました。さらに供回りには三間半の長柄槍500本と弓・鉄砲500挺を整然と配備しており、道三が「無念なるかな、我が子どもはあのうつけの門外に馬をつなぐことになろう」と嘆じたという逸話は、後世の潤色を含む可能性があるものの、信長が早くから規格化された足軽装備と示威行動を重視していたことを示していますね。
また、父・信秀の死去に際して菩提寺・万松寺で営まれた葬儀に、信長が袴もつけず長柄の太刀・脇差を荒縄で巻いた姿で現れ、仏前に抹香を掴んで投げつけたという有名な場面も、単なる奇行ではなく、父の晩年に三河・美濃戦線の悪化や家中の動揺が続いていた状況と重ねて考える必要があります。天文22年(1553年)閏1月には、筆頭格の傅役であった二番家老・平手政秀が自刃し、信長はその死を悼んで沢彦宗恩(たくげんそうおん)を開山に招き政秀寺を建立しました。政秀の死因については、信長の素行を諫める「諫死」であったとする説のほか、信長が政秀の嫡男・五郎右衛門の駿馬を所望して断られたことから生じた不和を原因とする記述も『信長公記』にあり、家督継承直後の信長と旧来の宿老層との間に強い緊張が存在していたことがうかがえます。
家督継承と尾張統一への抗争――清洲・岩倉織田氏と弟・信勝
父・信秀の死(天文21年=1552年3月説、天文20年=1551年説などがある)によって織田弾正忠家の家督を継いだ信長の前には、尾張国内の三つの大きな障壁が立ちはだかっていました。第一は下四郡の主筋にあたる清洲守護代・織田大和守家(彦五郎信友と実権を握る家老・坂井大膳)、第二は上四郡の守護代・織田伊勢守家(岩倉織田氏)、そして第三は実母・土田御前や筆頭家老・林秀貞(通勝)、林美作守、柴田勝家らが推す同母弟・織田信勝(信行・勘十郎)の存在でした。
信長はまず清洲織田氏との抗争に臨み、天文21年(1552年)の萱津(かやづ)の戦いで清洲勢を破りました。翌々年の天文23年(1554年)7月、清洲城内の守護・斯波義統が織田信友・坂井大膳らに殺害され、義統の嫡男・斯波義銀(よしかね)が信長のもとへ庇護を求めて駆け込むと、信長は「主君殺しの逆賊討伐」という大義名分を得ます。安食(あじき)の戦いで清洲勢を撃破した信長は、弘治元年(1555年)4月、叔父・織田信光(信秀の弟・守山城主)と連携して清洲城内へ乗り込み、織田信友を自害に追い込んで下四郡守護代の織田大和守家を滅ぼしました。これにより信長は那古野城から尾張の中心地である清洲城へと本拠を移します。
しかし、翌弘治2年(1556年)4月に後ろ盾であった美濃の斎藤道三が嫡男・斎藤義龍との長良川の戦いで討死すると、弾正忠家内部の反信長派が一斉に動きました。林秀貞・林美作守・柴田勝家らは、末森城に拠る信長の同母弟・信勝こそが当主にふさわしいとして挙兵し、那古野城の林勢と末森城の柴田勢が連携して清洲と那古野の間を遮断しようとしたのです。同年8月24日、信長はわずか700余の直属兵を率いて出陣し、庄内川を越えた稲生(いのう)原(現在の名古屋市西区稲生町付近)で柴田勝家1,000・林美作守700の軍勢と激突しました(稲生の戦い)。信長は自ら前線で林美作守を討ち取って敵軍を敗走させ、末森城に籠もった信勝と林・柴田らを生母・土田御前のとりなしで一旦赦免しました。
ところがその後も信勝は、上四郡の岩倉織田氏(織田信安・信賢)と通じて再挙を企てました。これを知った柴田勝家が信勝の謀反計画を信長に密告すると、信長は病を装って信勝を清洲城へ見舞いに呼び寄せ、河尻秀隆らに命じて信勝を討ち果たしました(弘治3年=1557年11月説と永禄元年=1558年11月説がある)。家中の分裂を完全に封じた信長は、永禄元年(1558年)の浮野(うきの)の戦いで岩倉勢を破り、翌永禄2年(1559年)3月には岩倉城を包囲して開城させました。父・信秀の死から約7年を費やし、信長はついに尾張上下八郡の支配権をほぼ掌中に収めたのです。
桶狭間の戦い――今川義元の尾張侵攻と局地戦の実態
尾張国内の抗争が収束しつつあったまさにその時期、東方の三河・尾張国境では、駿河・遠江・三河の三国を支配する戦国大名・今川義元の圧力が頂点に達していました。尾張南部の鳴海城主・山口教継・教吉父子や、笠寺・大高・沓掛の諸城が今川方に属したのに対し、信長は鳴海城の周囲に丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、大高城の周囲に鷲津砦・丸根砦を築いて兵糧と連絡路を遮断する包囲網を敷いていました。
永禄3年(1560年)5月、今川義元は大軍を率いて尾張国境へ進出し、松平元康(のちの徳川家康)に命じて大高城への兵糧入れを成功させるとともに、5月19日未明から鷲津砦・丸根砦への攻撃を開始しました。この報告が清洲城の信長のもとに届いたのは18日夜から19日明け方にかけてでした。『信長公記』によれば、18日夜に信長は家老たちと軍議を開くこともなく世間話だけをして帰し、19日夜明けに鷲津・丸根両砦への攻撃開始の急報を受けると、幸若舞(こうわかまい)の『敦盛』の一節「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」を舞い、具足を着け、立ったまま湯漬けを食してただちに清洲城を出陣したと記されています。
出陣時の信長の供回りは、小姓衆わずか5〜6騎であったとされ、熱田神宮付近に差しかかった時点でようやく200騎ほどが集まり、鷲津・丸根両砦陥落の煙を望みながら丹下砦、次いで善照寺砦へと進みました。善照寺砦で軍勢を整えた信長は、さらに前線の中嶋砦へ移動し、集結した約2,000の兵を率いて今川本陣の置かれた桶狭間方面へ進撃します。

歴史マニア猫の補足
桶狭間の戦いというと、「信長が山あいの迂回路を通って背後から今川本陣を奇襲した」というイメージがかつて広く語られていました。しかしこれは小瀬甫庵の『甫庵信長記』など後世の軍記物に由来する描写で、太田牛一の『信長公記』を丁寧に読むと、信長は中嶋砦から前方の山際へと正面に近いルートで進軍していることがわかります。正午過ぎに北西から激しい雷雨(雹を伴う豪雨)が吹きつけ、雨が上がった直後に織田軍の馬廻・前田利家や毛利新介、服部小平太らが今川義元の旗本へ突入し、乱戦のなかで服部小平太が義元に斬りつけ、毛利新介が義元の首級を挙げました。大軍が各地の城砦攻撃に分散していた一瞬の間隙を突き、敵総大将の本陣一点に戦力を集中させた電撃的な局地戦だったのです。
総大将・義元を失った今川軍は総崩れとなって駿河へ退却し、大高城・鳴海城などの尾張国内の今川方拠点も相次いで撤退・開城しました。
清洲同盟の成立――東方の安定と次なる舞台へ
桶狭間の戦いによって最も大きな変化が生じたのは、今川氏の支配下にあった西三河の情勢でした。大高城から引き揚げた松平元康(徳川家康)は、今川氏の菩提寺である大樹寺を経て父祖の居城・岡崎城へ入り、今川氏から自立して織田方の西三河諸城を攻め始めました。一方の信長も、北方の美濃・斎藤義龍(およびその子・龍興)との戦いを本格化させるためには、東方の三河戦線を抱え続けるわけにはいきませんでした。
こうして永禄5年(1562年)1月、織田信長と松平元康の間で和睦が成立し、元康が清洲城を訪れて攻守同盟を結んだと伝えられます(清洲同盟)。この同盟により、信長は東方(三河・遠江方面)の背後を固め、家康に今川領への進出を委ねる一方で、自らの全戦力を北方・美濃の攻略と、やがて訪れる中央政界への進出へと振り向けることが可能となりました。
時代背景と関係人物
| 人物 | 関係・時期 | 影響・補足 |
|---|---|---|
| 織田信秀 | 父(弾正忠家当主) | 勝幡城・那古野城・古渡城・末森城を拠点に津島と熱田の商業権益を掌握し、信長が尾張を統一するための経済・軍事基盤を築いた。 |
| 平手政秀 | 傅役・二番家老(〜天文22年) | 幼少期の那古野城時代から信長を補佐し、朝廷や斎藤道三との外交にも携わったが、天文22年(1553年)閏1月に自刃。信長は政秀寺を建立して弔った。 |
| 斎藤道三 | 岳父(美濃国主、〜弘治2年) | 信秀との和睦により娘・帰蝶(濃姫)を信長に嫁がせ、正徳寺での会見を経て信長の有力な後ろ盾となったが、弘治2年(1556年)に長良川の戦いで敗死した。 |
| 織田信勝(信行) | 同母弟(〜弘治3年/永禄元年) | 末森城を継ぎ、家老・林秀貞や柴田勝家らに擁立されて信長と家督を争う。稲生の戦いで敗れたのち、再挙を企てたとして清洲城で誘殺された。 |
| 柴田勝家 | 重臣 | 当初は信勝方の武将として稲生の戦いで信長と戦ったが、のち信勝の再挙計画を信長に密告して帰順し、以後は織田家筆頭家老として各地の戦線を率いた。 |
| 今川義元 | 駿河・遠江・三河の戦国大名 | 信秀の代から三河・尾張国境をめぐり織田家と抗争。永禄3年(1560年)5月19日、大高城・鳴海城方面への進出中に桶狭間で信長軍の急襲を受け討死した。 |
| 徳川家康(松平元康) | 同盟者(三河国主) | 桶狭間の戦いでは今川方の先鋒として大高城へ兵糧を入れたが、義元戦死後に岡崎城で自立し、永禄5年(1562年)に信長と清洲同盟を結んだ。 |
年表
年表
※年齢は数え年で表記
尾張国に生まれる
尾張下四郡の守護代・清洲織田氏(大和守家)の奉行・織田信秀の嫡男として誕生(幼名・吉法師)。出生地には勝幡城説と那古野城説がある。
父・信秀から那古野城を譲られる
父・織田信秀が今川氏豊から奪取した那古野城の城主となり、重臣・林秀貞(通勝)、平手政秀、青山信昌、内藤勝介らの補佐を受ける(天文8年=1539年頃とする説もある)。
古渡城で元服し、三郎信長と名乗る
父・信秀の居城である古渡城にて元服。翌天文16年(1547年)には三河国吉良大浜へ出陣し初陣を果たす。
美濃の斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)と婚姻
美濃の斎藤道三と父・信秀の間で和睦が成立し、道三の娘・帰蝶を正室に迎えて北方戦線の安定を図る。
父・織田信秀の死去と家督継承
末森城で父・信秀が死去し弾正忠家の家督を継ぐ(信秀の没年には天文20年=1551年説もある)。菩提寺・万松寺での葬儀において焼香の抹香を仏前に投げつけた逸話が伝わる。
傅役・平手政秀の自刃と正徳寺の会見
閏1月、二番家老・平手政秀が自刃し、信長はその菩提を弔うため政秀寺を建立。同年4月、美濃国富田の正徳寺(聖徳寺)で岳父・斎藤道三と対面する。
清洲織田氏を滅ぼし、清洲城へ本拠を移す
守護・斯波義統を殺害した清洲守護代・織田信友を叔父・織田信光と結んで討ち、那古野城から尾張の中心である清洲城へ居城を移す。
稲生の戦いで弟・織田信勝(信行)方を破る
4月に岳父・斎藤道三が長良川の戦いで敗死すると、8月に家老・林秀貞や柴田勝家らが弟・信勝を擁立して挙兵。信長は稲生の戦いでこれを破り、のち弘治3年(1557年)または永禄元年(1558年)に清洲城で信勝を誘殺して家中の分裂を終息させる。
岩倉城を攻略し、尾張上下八郡の支配をほぼ確立
尾張上四郡の守護代・織田伊勢守家(信安・信賢父子)の居城・岩倉城を攻囲して降伏させ、長年にわたる織田一族間の抗争に終止符を打つ。
桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る
5月19日、尾張国境の鳴海城・大高城方面へ進出した駿河・遠江の戦国大名・今川義元の本陣を桶狭間付近で急襲して討ち取る。永禄5年(1562年)には三河の松平元康(徳川家康)と清洲同盟を結ぶ。
ゆかりの地

旅猫の案内
名古屋城
徳川家康による築城以前、現在の二之丸付近には今川氏豊が築き、天文7年(1538年)頃に織田信秀が奪取して嫡男・吉法師(信長)に譲った「那古野城(柳ノ丸)」がありました。信長は弘治元年(1555年)に清洲城へ移るまでの十数年間をこの城で過ごし、元服や家督継承期を迎えた青年期の拠点です。
訪れる価値・見どころ
豪華絢爛な障壁画と飾金具を復元した本丸御殿が公開されているほか、[藤堂高虎](/history/articles/todo-takatora)や加藤清正らが築いた巨石石垣、現存重要文化財の西南隅櫓・東南隅櫓・西北隅櫓・表二之門を見学でき、二之丸庭園周辺では前身の那古野城跡の歴史背景もたどれます(※大天守・小天守は現在閉館中)。
清洲城
弘治元年(1555年)に信長が清洲守護代・織田信友を討って那古野城から移り、尾張統一および永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いへの出陣拠点とした居城です。永禄5年(1562年)には松平元康(徳川家康)との清洲同盟が結ばれ、翌永禄6年(1563年)に小牧山城へ移るまで初期織田政権の本拠となりました。
訪れる価値・見どころ
五条川沿いに平成元年(1989年)再建の模擬天主閣がそびえ、館内では清須城下の復元ジオラマや火縄銃・甲冑の展示を見学できます。対岸の清洲公園には信長と濃姫の銅像が立ち、周辺の朝日遺跡とあわせて尾張の中心地であった歴史環境を歩けます。
亀岳林 万松寺
天文9年(1540年)に父・織田信秀が織田家の菩提寺として那古野城の南(現在の名古屋市中区丸の内・桜通伏見付近)に建立した曹洞宗寺院です。信秀の葬儀において信長が荒縄を巻いた異装で現れ、仏前に抹香を投げつけたという『信長公記』の逸話の舞台であり、また幼少期の竹千代(徳川家康)が人質として過ごした場所としても伝わります。
訪れる価値・見どころ
慶長15年(1610年)の名古屋城築城に伴って現在の大須の地へ移転しました。境内には信秀公の墓碑(五輪塔)が祀られており、大須商店街の中心にありながら尾張織田氏の菩提寺としての由緒を今に伝えています。
熱田神宮
尾張国の商業・交通の要衝である熱田湊の背後に鎮座し、織田信秀・信長父子が門前町の経済権益と深く結びつきながら篤く崇敬した大社です。永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いに際し、清洲城を出陣した信長が戦勝を祈願し、勝利後に御礼として瓦葺きの築地塀を奉納したと伝えられます。
訪れる価値・見どころ
境内に残る「信長塀」は、土と石灰を油で練り固め瓦を幾重にも積み重ねた築地塀で、兵庫西宮神社の大練塀・京都三十三間堂の太閤塀と並び日本三大土塀の一つに数えられます。宝物館(熱田神宮文化殿)では古文書や刀剣などの社宝も公開されています。
桶狭間古戦場伝説地
永禄3年(1560年)5月19日、善照寺砦・中嶋砦を経由して進軍した織田信長軍が今川義元の本陣を急襲し、義元を討ち取った合戦地として国指定史跡に指定されている場所です(※隣接する名古屋市緑区側にも「桶狭間古戦場公園」が整備されており、両地点をあわせて合戦の地形を確認できます)。
訪れる価値・見どころ
史跡公園内には今川義元の戦死地を示す「今川義元戦死之地碑」や、明治期に建立された「桶狭間弔古碑」、明和8年(1771年)建立の「七石表(しちせきひょう)」などが保存されています。高徳院に隣接し、往時の丘陵と狭間の地形の面影を感じながら見学できます。
まとめ――尾張一国の枠を超え、美濃・天下へ
父・信秀から弾正忠家の家督を継いだ信長は、決して最初から圧倒的な権力を持っていたわけではありませんでした。守護代・清洲織田氏や岩倉織田氏との抗争、そして実弟・信勝や宿老・林秀貞らを巻き込んだ家中の内訌を一つずつ克服し、長柄槍や鉄砲の集団運用・直属の馬廻衆の育成という実務的な軍事改革を積み重ねた末に、尾張統一と桶狭間の勝利をつかみ取りました。
永禄5年(1562年)に徳川家康との清洲同盟によって東方の安全を確保した信長は、翌永禄6年(1563年)、長年住み慣れた清洲城を離れ、美濃国境を望む小牧山へと居城を移すという前例のない決断を下します。続く第2回では、小牧山城から稲葉山城(岐阜城)攻略、そして将軍・足利義昭を奉じての上洛と決裂に至る政治過程をたどります。


