
丹羽長秀|安土城造営と政権実務を担った「米五郎左」の生涯

基本情報
| 氏名・名称 | 丹羽長秀(にわながひで) |
|---|---|
| 生年・没年 | 1535年 - 1585年 |
| 出身地 | 尾張国春日井郡児玉村(現在の愛知県名古屋市西区) |
| 主な居城・拠点 | 佐和山城(滋賀県彦根市)、後瀬山城(福井県小浜市)、北ノ庄城(福井県福井市) |
| 種類 | 人物 (武将・偉人など) |
| 時代 | 戦国時代 / 安土桃山時代 |
| 主な地域 | 愛知県、滋賀県、福井県、京都府、大阪府 |
| 関連タグ | #丹羽長秀#織田信長#安土城#佐和山城#若狭 |
※本記事および年表の日付は、特記のない限り当時の旧暦(太陰太陽暦)で記載しています。
はじめに――織田政権を不可欠の要として支えた「米五郎左」
丹羽長秀(にわながひで)は、尾張統一期から織田信長の側近として仕え、合戦の指揮のみならず城郭普請・占領地行政・寺社外交・水運管理に至るまで、織田政権のあらゆる実務を担った宿老です。「木綿藤吉、米五郎左、かかり柴田に、退き佐久間」と謳われた俗謡において、長秀が毎日の生活に欠かせない「米(こめ)」にたとえられたのは、派手な一騎討ちの武勇以上に、彼がいなければ政権の軍事・行政組織そのものが回らないほどの調整力と実務遂行力を備えていたことを端的に表しています。
信長の養女(兄・織田信広の娘)を正室に迎え、嫡男・長重には信長の娘(報恩院)が嫁ぐなど、長秀は家臣でありながら織田一門に準じる特別な信任を得ていました。また、羽柴秀吉が「羽柴」の苗字を名乗る際、筆頭宿老の柴田勝家とならんで丹羽長秀から一字を借りたことからも、織田家中における長秀の重みがうかがえます。本記事では、尾張での出自から近江・若狭の領国経営、安土城造営の総奉行としての手腕、そして本能寺の変後から越前123万石の大大名としての最期に至るまで、丹羽長秀の生涯をたどります。
尾張・児玉での出自と信長への近侍、一門に準じる信任
丹羽長秀は天文4年(1535年)9月20日、尾張国春日井郡児玉村(現在の愛知県名古屋市西区児玉周辺)において、丹羽長政の次男として生まれました。幼名は万千代、元服後は五郎左衛門尉(ごろうざえもんのじょう)を称し、のち惟住(これずみ)の姓も用いました。丹羽氏はもともと尾張守護・斯波氏に仕える家柄でしたが、長秀は10代の半ば頃から信長(天文3年=1534年生まれ、長秀の1歳年長)の小姓・側近として仕え始めました。
弘治2年(1556年)の稲生の戦いでは信長方として戦い、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いを経て進められた尾張統一戦や美濃攻略戦において、長秀は着実に頭角を現します。永禄8年(1565年)には美濃加茂郡の堂洞城(岐阜県富加町)攻めで河尻秀隆らとともに戦功を挙げ、中濃地域の制圧に大きく貢献しました。
この尾張・美濃平定の過程で、信長は異母兄・織田(津田)信広の娘を自身の養女としたうえで長秀の正室(桂峯院)として嫁がせました。さらに後年には、信長自身の娘(報恩院)を長秀の嫡男・丹羽長重と婚姻させており、長秀は重臣のなかでも二重の姻戚関係によって織田一門に連なる極めて高い地位を与えられました。信長が「長秀は友であり、兄弟でもある」と評したとされるのも、幼少期から苦楽をともにし、一度も背くことなく政務・軍務を支え続けた信頼関係の深さを物語っています。
上洛戦から佐和山城・若狭一国の支配へ
永禄11年(1568年)9月、信長が足利義昭を奉じて上洛戦を開始すると、長秀は柴田勝家・佐久間信盛・木下秀吉らとともに先鋒を命じられました。南近江の六角義賢・義治父子が守る観音寺城の前衛拠点・箕作城(みつくりじょう)の攻略において、長秀の部隊は激しい夜間攻撃の末に城を陥落させ、観音寺城の無血開城と上洛への道を切り開く決定的な戦功を挙げます。上洛達成後には、京都や畿内の寺社・公家に対する禁制発給や堺の掌握、幕府との折衝など、高度な政治判断を要する行政実務を担いました。
元亀元年(1570年)に浅井長政・朝倉義景との抗争が始まると、長秀は北近江の戦線に投入されます。姉川の戦いの後も小谷城と南近江の連絡を遮断するため近江・佐和山城の包囲を続け、元亀2年(1571年)2月に守将の磯野員昌を開城・退去させました。信長は直ちにこの佐和山城と周辺5万石を長秀に与えます。佐和山城は、本拠である美濃・岐阜城から東山道(中山道)を経て京都へ向かう陸路と、琵琶湖の松原内湖を利用した湖上水運が交わる戦略上の最重要拠点でした。長秀はここを居城として湖上交通と兵站線を掌握し、元亀2年9月の比叡山焼き討ちや、翌年以降の浅井・朝倉攻めを後方と前線の双方から支えました。
天正元年(1573年)8月から9月にかけて朝倉氏と浅井氏が相次いで滅亡すると、信長は長秀に若狭一国(約10万石)を加増しました。これは織田家臣団のなかで一国単位の知行を与えられた最初の「国持大名」の誕生でした。長秀は小浜の後瀬山城(のちせやまじょう)を若狭支配の拠点とし、武田元明に代わって若狭の国衆(逸見氏・粟屋氏・熊川氏ら)を家臣団・与力として編成するとともに、日本海交易の窓口である小浜湊の商業権益と琵琶湖への物流ルート(九里半街道・鯖街道)を一元的に管理下に置きました。
安土城普請総奉行としての手腕――技術と物流の結晶
丹羽長秀の実務能力が最も鮮やかに発揮された事業が、天正4年(1576年)正月からの安土城造営でした。信長は琵琶湖東岸の安土山(滋賀県近江八幡市)に、天下統一の象徴であり政権の中枢となる新たな居城の建設を決定し、その総奉行(普請奉行)に長秀を任命しました。
安土城の建設は、山全体を総石垣で固め、その頂に地下1階・地上6階建ての壮麗な天主(天守)を築き、山麓には家臣の屋敷群と楽市楽座の城下町を整備するという、日本城郭史上にかつてない大事業でした。長秀は近江・尾張・美濃・伊勢・三河・若狭・畿内など10か国以上から数万規模の人足や、穴太衆(あのうしゅう)をはじめとする石工、奈良・京都の大工・瓦師・絵師(狩野永徳ら)を動員し、資材の調達から工程管理までを一手に統括しました。
特に天主台の礎石や大手道の石垣には数トンから十数トンにおよぶ巨石が多数用いられましたが、長秀は自身が管轄する琵琶湖の水運網と若狭・近江の動員体制をフル活用し、わずか3年余りという短期間で天正7年(1579年)5月の天主完成・信長移徙(いし=入居)を実現させました。信長は長秀の功績を高く評価し、名物茶器の「珠光小茄子」や「周光の茶碗」などを下賜してその労に報いています。

調査猫の補足
安土城の築城開始からわずか3か月後の天正4年(1576年)4月には、早くも主郭部の石垣工事が本格化しています。長秀が佐和山城主および若狭国主として琵琶湖の船団と湖東・湖西の物流網をすでに掌握していたからこそ、膨大な木材・石材・瓦の輸送と職人集団への兵糧供給を滞りなく行うことができたのです。
本能寺の変と清洲会議――政権の危機における決断
安土城の完成後も、長秀は石山本願寺攻めや天正9年(1581年)の京都御馬揃え、越前敦賀郡の加増など、政権中枢の重責を担い続けました。天正10年(1582年)5月、信長が四国の長宗我部元親を討伐するため、三男・織田信孝を総大将とする四国遠征軍を編成すると、長秀はその副将(後見役)に任じられ、信孝・蜂屋頼隆・津田信澄らとともに摂津の大坂・住吉・堺方面に集結して渡海の準備を進めていました。
まさに渡海を翌日に控えた天正10年6月2日、京都で明智光秀が本能寺の信長と二条新御所の織田信忠を襲撃し、父子ともに自刃させる「本能寺の変」が勃発します。翌6月3日に大坂でこの凶報に接した四国遠征軍の陣中は大混乱に陥り、兵の脱走が相次ぎました。この危機的状況のなかで、長秀は総大将の信孝を支えて軍の動揺を抑えるとともに、同じく副将として大坂城(石山本願寺跡の砦)の千貫櫓に入っていた津田信澄(信長の甥・織田信行の子)が明智光秀の娘婿であり光秀と内通しているとの疑いから、6月5日に信孝とともに信澄を攻めて討ち取り、大坂の拠点を確保しました。
その後、中国大返しで摂津・尼崎へ戻った羽柴秀吉の軍勢と合流した長秀と信孝は、6月13日の山崎の戦いに参戦して明智光秀を撃破します。続く6月27日の「清洲会議」では、織田信孝を後継に推す柴田勝家に対し、羽柴秀吉が亡き嫡男・信忠の遺児である三法師(秀信)の擁立を主張しました。四国遠征軍で信孝の後見役を務めていた長秀の態度は会議の帰趨を左右する鍵でしたが、長秀は池田恒興とともに、織田家の家督を既に継いでいた信忠の直系である三法師を立てる筋目を支持しました。この結果、清洲会議は秀吉・長秀・恒興の合意によって決着し、長秀は従来の若狭一国に加えて近江国の高島郡・志賀郡(坂本城を含む)を加増されました。
越前123万石の大大名化と晩年・最期の史実と伝承
清洲会議の後、柴田勝家と羽柴秀吉の対立が抜き差しならないものとなると、長秀は一貫して秀吉と歩調を合わせました。天正11年(1583年)春の賤ヶ岳の戦いにおいて、長秀は自領である若狭から近江高島郡・海津方面、そして琵琶湖の湖上水運を押さえて秀吉軍の背後と側面を固め、自らも敦賀・柳ヶ瀬方面へ兵を進めて秀吉の勝利に大きく寄与しました。
賤ヶ岳の戦いと北ノ庄城の落城によって柴田勝家が滅ぶと、秀吉は長秀の功績に対し、従来の若狭一国・近江2郡に、旧柴田領であった越前国と加賀国の2郡(能美郡・江沼郡)を加えた計約123万石という広大な領国を宛行いました。長秀は越前・北ノ庄城を新たな本拠として入城し、勝家の自刃によって焼失した城と城下町の復興に着手するとともに、領内の検地や家臣団の再編を進めました。
しかし、この頃から長秀は重い病に苦しむようになります。翌天正13年(1585年)に入ると病状が悪化し、同年4月16日、北ノ庄城において数え51歳で死去しました(『郡山の歴史』『日本大百科全書』)。

歴史マニア猫の補足
丹羽長秀は死の床で羽柴秀吉にあてた遺書を残しており、そこには「(病のため)御用にも立ち候わで、口惜しく候えども、それも、はや、是非に及ばず候」と、志半ばで世を去る無念と後事を託す思いが記されています(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』)。また後世には、長年の病苦や政局への憂慮から自ら短刀で腹を裂いて果てたとする伝承も語られるなど、実直に政権を支え抜いた宿老の最期として永く記憶されました。
長秀の死後、跡を継いだ嫡男・丹羽長重は、同年夏の越中・佐々成政攻めに際して家臣の不手際などを理由に秀吉から越前・加賀の大半を没収され、若狭一国へ、さらに天正15年(1587年)の九州平定後には加賀松任4万石へと大幅に減封されました。これは、実力者であった長秀の死を機に、秀吉が織田旧臣の巨大勢力を削減する政策をとったためとみられています。それでも長重は後に加賀小松12万石へ復帰し、関ヶ原の戦いでの一時改易を経て江戸時代には陸奥国白河10万石、さらに子の光重の代に陸奥国二本松10万石の大名として幕末まで丹羽家の名跡を伝えました。
時代背景と関係人物
丹羽長秀の生涯は、信長の側近から国持大名へ、そして本能寺の変後の政権移行期におけるバランサーとしての歩みでした。主要な関係人物を整理します。
| 人物 | 関係・時期 | 影響・補足 |
|---|---|---|
| 織田信長 | 主君・義父(1550年頃〜1582年) | 10代から近侍し、兄・信広の娘(信長養女)を長秀の正室に、自身の娘を長秀の嫡男・長重に嫁がせるなど一門同様の信任を与えた。 |
| 柴田勝家 | 同僚宿老(〜1583年) | 織田家中で長秀と並ぶ重臣。秀吉の「羽柴」姓の由来となった二人だが、清洲会議と賤ヶ岳の戦いでは立場を異にした。 |
| 羽柴秀吉(豊臣秀吉) | 同僚・提携者(〜1585年) | 若き日に「羽柴」の苗字に長秀の「羽」を借りた。本能寺の変後の山崎の戦い・清洲会議・賤ヶ岳の戦いで長秀の支持を得て覇権を握った。 |
| 織田信孝 | 信長三男・四国遠征軍総大将(1582年) | 天正10年の四国遠征で長秀が副将として補佐。本能寺の変直後に大坂でともに津田信澄を討ったが、清洲会議では長秀は三法師を推した。 |
| 丹羽長重 | 嫡男・後継者(1571年〜1637年) | 信長の娘(報恩院)を正室に迎える。父・長秀の死後に秀吉から大幅減封を受けるも、のちに大名として復活し二本松藩丹羽家の祖となった。 |
年表
年表
※年齢は数え年で表記
尾張国春日井郡児玉村に生まれる
尾張国児玉(現在の名古屋市西区)で丹羽長政の次男として誕生。幼名は万千代、通称は五郎左衛門を称した。
織田信長に仕え、稲生の戦いなどに従軍
早くから若き日の織田信長に近侍し、弘治2年(1556年)の稲生の戦いでは信長方として参戦。のちに信長の養女(兄・織田信広の娘)を正室に迎え、一門に準じる待遇を受ける。
上洛戦の箕作城攻略で戦功を挙げ、京都の行政に携わる
足利義昭を奉じた上洛戦において、近江六角氏の支城・箕作城を攻略する主力となり、上洛後は京都や畿内の折衝・行政実務にもあたる。
近江・佐和山城主に任じられる
浅井長政方の磯野員昌が退去した近江・佐和山城を与えられ、東山道(中山道)と琵琶湖水運を抑える要衝の城主として北近江・京都間の連絡線を掌握する。
若狭一国を与えられ、織田家中で最初の国持大名となる
朝倉・浅井滅亡後の戦功により若狭一国(約10万石)を加増され、後瀬山城(福井県小浜市)を拠点に若狭国衆を統制する国持大名となる。
安土城築城の総奉行(普請奉行)に任命される
琵琶湖畔の安土山に信長が築いた安土城の総奉行に抜擢され、畿内・東海・北陸から多数の石工・職人・人足を動員して大城郭の造営を指揮する。
越前敦賀郡を加増され、四国遠征軍の副将として大坂へ布陣
武藤舜秀の死去に伴い敦賀郡を支配下に収め、天正10年5月には三男・織田信孝を総大将とする四国遠征軍の副将として摂津・大坂(住吉・堺方面)へ出陣する。
本能寺の変に際し大坂で津田信澄を討ち、山崎の戦い・清洲会議に参加
本能寺の変の報を受けると、光秀の娘婿であった津田信澄を大坂城(千貫櫓)で討ち、羽柴秀吉軍と合流して山崎の戦いに勝利。清洲会議では三法師擁立に賛同する。
賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉を支援し、越前・若狭・加賀2郡の約123万石を領する
琵琶湖の水運や海津・敦賀方面を抑えて秀吉を支援。戦後、従来の若狭・近江2郡に越前および加賀2郡(能美・江沼)を加増され、北ノ庄城を本拠とする大大名となる。
越前・北ノ庄城で死去
北ノ庄城において病のため数え51歳で死去。死に臨み、秀吉の力となれぬことを惜しむ遺書を残したと伝わる。
ゆかりの地

旅猫の案内
特別史跡 安土城跡
天正4年(1576年)正月、織田信長から築城の総奉行(普請奉行)に任命された丹羽長秀が、心血を注いで造営を指揮した城郭です。長秀は高度な石垣構築技術と動員力を発揮して短期間で主郭部を築き上げ、山麓には自身の屋敷(伝丹羽長秀邸跡)も構えました。
訪れる価値・見どころ
大手道沿いに伝羽柴秀吉邸跡や伝前田利家邸跡と並んで「伝丹羽長秀邸跡」の石垣・郭跡が残っており、山頂へ登れば天主台跡や本丸跡、黒金門跡などの巨石を用いた石垣群を間近に見学できます。長秀が指揮した織田政権の城郭普請の到達点を体感できる中核史跡です。
佐和山城跡
元亀2年(1571年)2月に浅井方の磯野員昌が退去したのち、丹羽長秀が城主として入城し、天正10年(1582年)の清洲会議まで約11年間にわたり居城とした山城です。長秀はここを拠点に北近江と岐阜・京都を結ぶ陸上・湖上交通を管轄しました。
後瀬山城跡
天正元年(1573年)9月に若狭一国を与えられた丹羽長秀が、旧守護・若狭武田氏の居城を引き継いで若狭支配の本拠とした国指定史跡の山城跡です。長秀は重臣を城代として置き、小浜湊の商業や日本海交易、若狭国衆の統制を進めました。
総光寺(丹羽長秀公墓所)
天正11年(1583年)に越前・北ノ庄城へ入った丹羽長秀が、自身の菩提寺として足羽山西麓に創建した曹洞宗の寺院です。天正13年(1585年)4月16日に長秀が死去するとこの寺で葬儀が営まれ、遺骨が埋葬されました。
訪れる価値・見どころ
境内の奥まった場所に、笏谷石(しゃくだにいし)で造られた丹羽長秀公の墓碑(五輪塔・宝篋印塔)と霊廟が静かに佇んでいます。明治期に旧二本松藩主・丹羽家や有志によって墓所が整備されており、北の庄城址や足羽山周辺の史跡とあわせて徒歩で巡ることができます。
小牧山城跡
永禄6年(1563年)に織田信長が美濃攻略の拠点として築いた城で、若き日の丹羽長秀も普請や犬山城・堂洞城攻略などの美濃戦線において中心的な役割を果たしました。のちに安土城の総奉行となる長秀が、信長の初期の城郭・城下町建設を学んだ原点ともいえる場所です。
訪れる価値・見どころ
山全体が国指定史跡として整備されており、近年の発掘調査によって信長・長秀らが築いた創建期の石垣が複数段にわたって確認・露出展示されています。山麓の「れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)」では、当時の石垣構造や城下町の成り立ちを詳しく見学できます。
まとめ
丹羽長秀は、織田信長という変革者のもとで、軍事・外交・物流・建設という多様な実務を統合して動かした政権の要でした。近江・佐和山城と若狭・後瀬山城を拠点に琵琶湖から日本海に至る交通・商業網を掌握し、その基盤の上に安土城という前代未聞の城郭を築き上げた手腕は、同時代の武将のなかでも群を抜いています。本能寺の変という動乱のさなかにも、大坂での部隊統制から山崎の戦い、清洲会議へと的確な判断を重ね、織田政権から豊臣政権への移行期において123万石の大大名として北陸の安定を担いました。「米五郎左」の異名が示す通り、彼の実直で確かな実務こそが、戦国から天下統一へと向かう時代の骨格を形作っていたといえます。


