人物戦国時代

今川義元|海道一の弓取りと称された駿河・遠江・三河の統治と実像

公開: 2026-10-30
静岡県、愛知県
「公家趣味の暗愚な武将」という俗像とは異なる今川義元の実像を解説。花倉の乱による家督継承、『今川仮名目録追加』と検地・寄親寄子制による領国統治、甲相駿三国同盟と三河経営、氏真への駿遠支配の分掌、桶狭間への進軍目的をめぐる諸説をたどります。
今川義元|海道一の弓取りと称された駿河・遠江・三河の統治と実像のイメージ

基本情報

氏名・名称今川義元(いまがわよしもと)
生年・没年永正16年(1519年) - 永禄3年(1560年)
出身地駿河国・今川館(駿府館)
主な居城・拠点今川館(駿府館、現・駿府城公園周辺)
種類人物 (武将・偉人など)
時代戦国時代
主な地域静岡県、愛知県
関連タグ
#今川義元#今川仮名目録追加#太原雪斎#花倉の乱#甲相駿三国同盟#桶狭間の戦い#駿府

はじめに

今川義元(1519〜1560)は、駿河・遠江から三河・尾張西部へと勢力を広げ、最盛期には東海地方有数の領国を築き上げた戦国大名です(※本記事の月日は原則として当時の旧暦で表記しています)。長らく通俗的な歴史物語のなかでは、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで織田信長に討たれた結果ばかりが強調され、「京風の公家趣味に溺れ、白塗り・お歯黒に輿(こし)で遊山気分で進軍した暗愚な武将」という俗像で語られてきました。

しかし、今川家が発給した古文書や分国法『今川仮名目録追加』、領内の検地・流通政策を検証した研究では、そのような軟弱な人物像が江戸時代以降の軍記物などによって作られた虚像であることが指摘されています。本記事では、花倉の乱を勝ち抜いた家督継承から、駿河・遠江の法制・経済統治、甲相駿三国同盟と三河経営、嫡男・氏真への駿遠支配の分掌、そして桶狭間への進軍目的をめぐる議論まで、「海道一の弓取り」と称された今川義元の実像をたどります。

出家と「花倉の乱」による家督継承

今川義元は永正16年(1519年)、駿河守護・今川氏親と正室・寿桂尼(権大納言・中御門宣胤の娘)の三男(五男とも)として駿府の今川館に生まれました。今川氏は足利将軍家の支流・吉良氏の分かれであり、「御一家」に次ぐ高い家格を持つ室町幕府の名門守護家でした。父の氏親は、叔父・伊勢宗瑞(北条早雲)の支援を受けて遠江国への支配を広げ、大永6年(1526年)4月には東国で最も早い時期の分国法である『今川仮名目録』(33箇条)を制定して戦国大名化の礎を築きました。

同年に父・氏親が没すると、家督は長兄の今川氏輝が継ぎました。芳菊丸(義元)には当初家督継承の予定がなく、仏門に入って駿河の善得寺(善得院)ついで京都の建仁寺・妙心寺へ上って修行しました。このとき教育係として芳菊丸に付き添い、禅の教養から政治・兵法に至るまで薫陶を与えたのが、名僧・太原雪斎(太原崇孚)です。芳菊丸は得度して「栴岳承芳(せんがくしょうほう)」と名乗り、妙心寺の大休宗休らに学んで学識を深めました。

ところが駿河へ帰国した後の天文5年(1536年)3月17日、当主であった兄・氏輝(享年24)と同母弟の彦五郎が相次いで急死するという事態が起きます。後継者を失った今川家中では、母・寿桂尼や太原雪斎らが栴岳承芳を還俗させて擁立したのに対し、有力外様国衆の福島(くしま)氏らは、氏親の側室の子で花倉(藤枝市)の遍照光寺住持であった異母兄・玄広恵探(げんこうえたん)を擁立して対立し、同年5月に家督争い「花倉の乱(花蔵の乱)」が勃発しました。

承芳方は機先を制して福島氏の拠点を攻め、焼津の方ノ上城を落としたのち、6月には岡部親綱らが玄広恵探の本拠・花倉城(葉梨城)を攻撃して陥落させました。敗れた恵探は自刃し、乱を平定した承芳は京都の室町幕府第12代将軍・足利義晴から「義」の一字(偏諱)を拝領して「今川義元」と名乗り、数え18歳で今川家第11代(駿河今川氏としては9代)当主の座を確立しました。義元は亡き兄・氏輝の菩提を弔うため、太原雪斎に命じて大休宗休を開山に迎え、大龍山臨済寺を創建しています。

『今川仮名目録追加』と駿河・遠江の領国統治

家督を継いだ義元は、太原雪斎の補佐を得ながら、父・氏親の路線をさらに発展させた内政・法制改革を進めました。その象徴が、天文22年(1553年)2月に制定された分国法『今川仮名目録追加』(全21箇条)です。

中世を通じて有力寺社や公家・国衆は、室町幕府や旧来の守護から認められた「守護使不入(しゅごしふにゅう=守護の役人が立ち入って検断や課税を行うことを拒否できる特権)」を盾に、大名権力の介入を拒むことがありました。これに対して義元は『今川仮名目録追加』第20条において、「只今はをしなべて自分の力量を以て国の法度を申付、静謐する事なれば」と述べ、現在の今川領国の秩序(静謐)を維持しているのは足利将軍家ではなく自らの力量(実力)によって国法を定めている今川氏自身であるとし、旧来の守護使不入の特権を否定することを宣言しました。幕府から与えられた守護職の権威に依存するのではなく、自らの実力によって領国を統治する戦国大名としての一円支配の立場を明確にした規定として知られています。

さらに義元は、駿河・遠江・三河の領内で検地を実施して年貢負担や知行の把握を進めるとともに、軍事・家臣団編成では、有力な国衆を「寄親(よりおや)」とし、地域の中小武士を「寄子(よりこ)」として付属させる「寄親・寄子制」を整備して家臣団の結束と動員体制を強化しました。

また、本拠である駿府(今川館周辺)においても商業保護や伝馬制・流通統制が進められました。足利一門としての高い家格と京都との深いつながり、さらに駿府の経済的発展を背景に、戦乱の京都から冷泉為和や山科言継といった公家や連歌師・文化人が駿府を訪れて滞在し、京文化を取り入れた今川文化が育まれました。

調査猫

調査猫の補足

義元が「公家かぶれで軟弱だった」という俗説の根拠によく挙げられるのが、和歌を好み、合戦の際にも馬ではなく「輿(こし)」に乗っていたという話です。しかし当時、京都の公家と交流して和歌・故実を学ぶことは戦国大名に共通する教養・外交手段でした。また、足利将軍家庶流の名門・今川家の当主にとって、幕府から輿の使用を許されることは高い家格の象徴であり、尾張進軍の際にも織田氏との家柄・立場の違いを周囲に視覚的に示す政治的・軍事的なデモンストレーションの側面があったと指摘されています。

甲相駿三国同盟と三河への進出・氏真への政務分掌

義元の領国拡大は、東の北条氏・北の武田氏との外交・軍事の駆け引きのなかで進められました。家督継承翌年の天文6年(1537年)、義元は甲斐の武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎えて甲駿同盟を結びましたが、これに反発した相模の北条氏綱が駿河東部の富士川以東(河東地域)へ侵攻し、「河東一乱」と呼ばれる長期抗争が始まりました。義元は天文14年(1545年)の第二次河東一乱において、甲斐の武田晴信(信玄)および関東の山内上杉憲政と連携して北条氏康と戦い、武田晴信の仲介と太原雪斎らの交渉を経て河東地域を奪還しました。

こうして東方の失地を回復した義元は、西の三河・尾張方面へ本格的に進出します。天文15年(1546年)には東三河の要衝・今橋城(のちの吉田城)を攻略して今川氏の城代(小原鎮実ら)を置き、西三河では織田信秀と争う岡崎城主・松平広忠を従属させました。天文18年(1549年)3月に松平広忠が死去すると、義元は太原雪斎らを大将として織田方の前線拠点・安祥城を攻め落とし、捕らえた城将・織田信広(信長の庶兄)と引き換えに、織田方の人質となっていた松平家の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を奪還して駿府へ迎え入れました。義元は岡崎城に今川氏の家臣を置いて松平家の所領と三河国衆を管理下に組み込み、元服した竹千代に自らの偏諱(「元」の字)を与えて「松平元信(のち元康)」と名乗らせ、姪(関口氏純[親永]の娘・築山殿)を娶らせるなど、今川一門に準じる立場で育成しながら三河支配を進めました。

さらに天文23年(1554年)には、北条氏康・武田晴信(信玄)との間で、互いの子女の婚姻(義元の嫡男・氏真に北条氏康の娘、武田晴信の嫡男・義信に義元の娘、北条氏康の嫡男・氏政に武田晴信の娘を嫁がせる婚姻同盟)を軸とする「甲相駿三国同盟」を成立させました。これにより東と北の背後を固めた義元は、弘治元年(1555年)閏10月に太原雪斎を病で失ったのちも、三河で起きた国衆の反乱の鎮圧を進めました。

永禄元年(1558年)、義元は本国である駿河・遠江の支配を嫡男の今川氏真に分掌(分担)させ、自らは三河支配の徹底と尾張方面の領国化を主導する体制をとりました。

桶狭間の戦い――進軍目的をめぐる諸説と最期

尾張への本格進出を前にした永禄2年(1559年)3月、義元は7箇条からなる軍法(「今川義元定書」)を制定して陣中での軍規維持などを定め、翌永禄3年(1560年)5月、駿河・遠江・三河の軍勢(約2万5000余とされる)を動員して自ら尾張国へと出陣しました。この尾張侵攻の目的については、京都へ上洛して室町幕府の政権を掌握し天下に号令するためであったとする伝統的な「上洛目的説」が長く語られてきました。一方、近年の研究(久保田昌希氏ら)では、上洛説には確かな証拠がなく後世の徳川中心史観に基づく作為の可能性が指摘されており、実際には尾張国内の沓掛・鳴海・大高などの今川方諸城を拠点として「三河(とくに西三河)支配の徹底と領国の拡大」を図った軍事行動であったとする見解が示されています。

5月18日に沓掛城へ入った義元は、松平元康(徳川家康)に命じて大高城への兵糧入れを成功させ、翌5月19日朝には松平元康・朝比奈泰朝らに織田方の丸根砦・鷲津砦を攻撃させて陥落させました。前哨戦の勝利を受けて義元の本隊は大高城方面へ進みましたが、途上の桶狭間(田楽狭間)付近に本陣を置いて休息をとっていた午後、天候が急変して激しい風雨(夕立)となるなか、強行軍で接近した織田信長軍(約2000余とされる)の急襲を受けました(桶狭間の戦い)。不意を突かれた今川本陣は混乱に陥り、義元は信長の家臣・服部小平太に槍で刺され、毛利新助(秀高)に首を取られて戦死しました。享年42でした。

歴史マニア猫

歴史マニア猫の補足

静岡市歴史博物館の展示でも紹介されていますが、若き日の徳川家康(松平元康)が17歳から19歳頃に文書へ記した花押(サイン)は、今川義元の花押とよく似た形をしていました。さらに家康は後年、駿府を本拠に選び、今川氏ゆかりの臨済寺を再興するなど、駿府で過ごした時代のつながりを大切にしました。信長にとって義元は大きな壁でしたが、家康にとっての義元は、大名としての基礎を学んだ存在でもあったのですね。

時代背景と関係人物

人物関係・時期影響・補足
今川氏親父・先々代当主(〜1526年)駿河・遠江の戦国大名。『今川仮名目録』を制定し、遠江進出や検地を進めて義元時代の統治の基礎を築く。
寿桂尼母・氏親正室(〜1568年)公家・中御門宣胤の娘。氏親・氏輝死後の家中を「帰」の朱印状で支え、花倉の乱で義元の家督継承を後押しした。
太原雪斎(崇孚)師・教育係・臨済寺住持(1496年〜1555年)京都での修行時代から義元を導き、花倉の乱、河東一乱、安祥城攻略、甲相駿三国同盟など内政・外交・軍事を支えた参謀。
今川氏真嫡男・後継当主(1538年〜1614年)永禄元年に義元から駿河・遠江の支配を分掌される。桶狭間後に三河・遠江の動揺に直面し、のち駿河を退去。
松平元康(徳川家康)庇護下の三河領主(1549年〜1560年)少年期(竹千代)から駿府で今川氏の庇護下に育ち、義元の偏諱を受けて元康と名乗る。桶狭間の戦いでは大高城兵糧入れと丸根砦攻略を担う。
武田晴信(信玄)義弟・三国同盟相手(1537年〜1560年)姉の定恵院が義元の正室。天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟を結び、義元の尾張・三河方面への進出の背後を安定させた。
織田信長尾張の敵対大名(〜1560年)尾張統一を進めて鳴海・大高周辺の今川方拠点と抗争。永禄3年5月19日、桶狭間で義元の本陣を急襲して討ち取る。

年表

年表

※年齢は数え年で表記

1519年(永正16年)数え1歳

駿河守護・今川氏親の子として誕生

駿河・遠江を治める今川氏親と正室・寿桂尼(中御門宣胤の娘)の三男(五男とも)として駿府に生まれる。幼名は芳菊丸。

1526年(大永6年)数え8歳

父・氏親が『今川仮名目録』を制定・死去

父・氏親が分国法『今川仮名目録』(33箇条)を制定したのち死去し、長兄・今川氏輝が家督を継ぐ。芳菊丸は出家し、太原雪斎(崇孚)のもとで修行して栴岳承芳と名乗る。

1536年(天文5年)数え18歳

花倉の乱(花蔵の乱)を制し今川家当主となる

3月に兄・氏輝と同母弟・彦五郎が相次いで急死。還俗した承芳(義元)は異母兄・玄広恵探との家督争い(花倉の乱)に勝利し、将軍・足利義晴から偏諱を受けて義元と名乗る。

1537年(天文6年)数え19歳

武田信虎の娘と婚姻、北条氏綱と河東一乱が勃発

甲斐の武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎えて甲駿同盟を結ぶ。これに反発した相模の北条氏綱が駿河東部の河東地域へ侵攻し、長期にわたる河東一乱が始まる。

1545年(天文14年)数え27歳

第二次河東一乱で北条氏康から河東地域を奪還

武田晴信(信玄)や山内上杉氏と連携して北条氏康と戦い、太原雪斎の外交・軍事工作により駿河東部の河東地域(富士川以東)を取り戻す。

1546年(天文15年)数え28歳

東三河の今橋城(吉田城)を攻略

東三河の要衝・今橋城(のちの吉田城)を攻め落として今川氏の城代(小原鎮実ら)を置き、三河進出の拠点を築く。

1549年(天文18年)数え31歳

安祥城攻略と松平竹千代(徳川家康)の駿府迎え入れ

西三河の松平広忠が死去したのち、太原雪斎らを大将として織田方の安祥城を攻略。織田信広と人質交換を行い、松平家の嫡男・竹千代を駿府へ迎え入れて三河の支配権を掌握。

1553年(天文22年)数え35歳

『今川仮名目録追加』(21箇条)を制定

父・氏親の分国法を補訂する『今川仮名目録追加』を制定。室町幕府による守護使不入を否定し、自らの力量によって領国を統治する戦国大名としての一円支配権を宣言。

1554年(天文23年)数え36歳

甲相駿三国同盟の成立

甲斐の武田晴信(信玄)・相模の北条氏康との間で、嫡男・氏真と氏康の娘(早川殿)の婚姻などを含む三国同盟を結び、東方の国境を安定させる。

1555年(弘治元年)数え37歳

師であり参謀の太原雪斎が死去

閏10月、義元の教育係であり外交・軍事・内政を支えた臨済寺住持・太原雪斎(崇孚)が死去。

1558年(永禄元年)数え40歳

嫡男・今川氏真に駿河・遠江の支配を分掌させ、三河・尾張方面に注力

駿河・遠江の支配を嫡男・氏真に分掌(分担)させ、自らは三河支配の徹底と尾張方面の領国化を主導する体制をとる。

1560年(永禄3年)数え42歳

尾張へ進軍し、桶狭間の戦いで討死

5月、大軍を率いて尾張の沓掛・大高・鳴海方面へ進軍。5月19日、桶狭間において織田信長軍の急襲を受け戦死。

ゆかりの地

旅猫

旅猫の案内

今川義元の実像を訪ねる旅は、今川氏の本拠・今川館(駿府館)があった静岡市の駿府城公園と隣接する静岡市歴史博物館から始まります。そこから北西へ足を延ばして義元と太原雪斎ゆかりの菩提寺・臨済寺を訪ね、さらに西の藤枝市にある花倉城跡へ登ると、家督継承を決定づけた花倉の乱の舞台を体感できます。東海道を西へ進み、今川氏の東三河支配の拠点であった豊橋市の吉田城址(豊橋公園)を経て、最後に愛知県豊明市の国指定史跡・桶狭間古戦場伝説地を訪れることで、駿河から三河・尾張へと広がった今川領国の軌跡をたどることができます。
SPOT 1

駿府城公園

徳川家康が築いた駿府城の敷地一帯は、室町・戦国時代に今川氏が本拠を置いた「今川館(駿府館)」跡と重なる場所です。義元はこの館から駿河・遠江・三河の3か国にまたがる領国を統治し、京都の公家を招いて今川文化を育むとともに、人質時代の竹千代(徳川家康)を庇護しました。

訪れる価値・見どころ

現在公園内に見られる石垣・堀や復元された東御門・巽櫓・坤櫓は、徳川家康による駿府城築城以降および近年の復元によるものです。一方、発掘調査では駿府城遺構の下層から今川館時代の庭園跡や金箔瓦などが確認されており、南隣にある静岡市歴史博物館では今川義元の発給文書や花押、今川時代の駿府城下町に関する展示を詳しく見学できます。

営業: 9:00-16:30(有料施設)
料金: 全施設共通券 大人360円(公園内は無料)
駐車場: 周辺の有料駐車場を利用
交通: JR静岡駅から徒歩約15分
SPOT 2

花倉城跡

天文5年(1536年)に兄・今川氏輝の急死に伴って起きた家督争い「花倉の乱(花蔵の乱)」において、義元(当時は栴岳承芳)と対立した異母兄・玄広恵探が本拠として籠城した山城です。太原雪斎や岡部親綱らの支援を受けた義元方がこの城を攻め落としたことで乱は終結し、義元の家督継承が確立しました。

訪れる価値・見どころ

藤枝市の標高約297mの山頂部に位置し、自然の尾根と谷を活かした本曲輪・二の曲輪・三の曲輪や土塁・堀切など、16世紀前半の山城遺構が後世の改変を受けずに残っています。整備されたハイキングコースを登ると、山頂付近から志太平野や駿河湾方面を見渡すことができます。

営業: 散策自由(山城のため日中の訪問を推奨)
料金: 無料
駐車場: なし(登城口周辺の道幅が狭いため公共交通機関または麓からの徒歩を推奨)
交通: JR東海道本線「藤枝駅」からバス「山寺入口」下車、山頂まで徒歩約60分
SPOT 3

臨済寺

天文5年(1536年)に急死した兄・今川氏輝の菩提を弔うため、義元が師・太原雪斎(崇孚)に命じて大休宗休を開山に迎え創建した今川家の菩提寺です。後奈良天皇の勅願所として「勅東海最初禅林」の扁額を掲げ、桶狭間で戦死した義元の葬儀もこの寺で執り行われました。

訪れる価値・見どころ

現在残る本堂(国指定重要文化財)は天正年間以降の徳川家康による再興期の建築であり、山腹の今川家墓所にある義元の墓も明治期に廃寺となった天澤寺から移されたものです。寺には今川氏輝・義元・太原雪斎の木像や、竹千代(徳川家康)が学んだと伝わる「手習いの間」、国指定名勝の庭園が伝わります(専門道場のため建物内部や庭園は通常非公開ですが、毎年5月19日の義元命日と10月15日の年2回、特別公開が行われます)。

営業: 境内参拝は自由。建物内部は通常非公開(特別公開:5月19日・10月15日のみ)。
料金: 境内無料
駐車場: あり(普通車約15台)
交通: JR「静岡駅」からバス「臨済寺前」下車、徒歩約5分
SPOT 4

吉田城址(豊橋公園)

豊川沿いの要衝に築かれた今橋城(のちの吉田城)は、天文15年(1546年)に今川義元が攻略して城代(小原鎮実ら)を置き、今川氏による東三河支配の拠点とした城です。義元はこの城を前線基地として東三河の国衆や寺社を編成し、尾張国境への進出を支えました。

訪れる価値・見どころ

今川義元が支配した当時の今橋城(吉田城)は土塁と堀による城郭でした。現在の豊橋公園本丸跡に見られる石垣は天正18年(1590年)に入城した池田輝政および江戸時代初期の改修によるもので、鉄櫓(くろがねやぐら)は昭和29年(1954年)の模擬復興建築です。同じ公園内にある豊橋市美術博物館では、今川・徳川・池田時代へと続く吉田城の歴史資料が展示されています。

営業: 公園内は終日開放(鉄櫓内部公開は10:00〜15:00、7〜9月は8:00〜13:00、月曜・年末年始休館)
料金: 無料
駐車場: あり(豊橋公園駐車場・無料)
交通: JR・名鉄「豊橋駅」から豊橋鉄道市内線(路面電車)「豊橋公園前」下車、徒歩約3分
SPOT 5

桶狭間古戦場伝説地

永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いで今川義元が戦死した場所と伝わる、合戦関連地で唯一の国指定史跡です(※西方約1.5kmの名古屋市緑区にある「桶狭間古戦場公園」とは別地点です)。

訪れる価値・見どころ

境内には江戸時代後期の明和8年(1771年)に建てられた義元(一号碑)や家老・松井宗信(二号碑)ら7名の戦死場所を示す「七石表」をはじめ、文化6年(1809年)に津島の神官・氷室豊長が建てた「桶狭弔古碑」、万延元年(1860年)の仏式の墓、明治9年(1876年)の義元・松井宗信の墓碑など後世の供養・顕彰碑が並び、隣接する高徳院にも義元本陣跡碑や墓所があります。

営業: 散策自由
料金: 無料
駐車場: なし(近隣の有料コインパーキングを利用)
交通: 名鉄名古屋本線「中京競馬場前駅」から徒歩約3分

まとめ

今川義元の42年の生涯を振り返ると、兄・氏輝の急死という危機のなかで還俗し、太原雪斎や母・寿桂尼とともに花倉の乱を制して当主となって以来、24年間にわたって駿河・遠江・三河の領国を拡大・統治した戦国大名としての姿が浮かび上がります。『今川仮名目録追加』による守護使不入の否定と戦国大名としての一円支配の宣言、検地や寄親・寄子制による家臣団編成、甲相駿三国同盟による外交の安定は、「海道一の弓取り」と称された今川氏の全盛期を支える基盤となりました。桶狭間での戦死によって今川氏の覇権は転換点を迎えましたが、義元が駿府と東海地方に築いた法制・都市・文化の足跡は、徳川家康をはじめとする次代の支配者たちにも引き継がれていきました。

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